無駄な鎧を脱ぎ捨てて

『あたしのからだと感じ方に何か関係があるのですか』

自分の体と触れ合っていない人に、
このような言葉が返ることがある。


私にとってもお客様にとっても、
つらい返答なのです。



体から離れたところに感情などありえない。


体の躍動感がかなり失われてしまっているとき。
世界から受ける印象も失われる。
反応も失われる。


体が生き生きしてくれば、
それだけ現実を鮮やかに感じ取れる。
積極的な反応が起こってくる。


からだに無駄な鎧(=ヨロイ)を着込むとき。
精神的な抑鬱を感じて体が重くなり動けなくなる人もいる。
だが逆に鎧が重くて動けなくなったから抑鬱になるときもある。


体は重くなります。
体の動きが抑制されて動作が重くなる感じ。


過度に発達した筋肉をみると、
いかにも力強そうです。
ですがこれは見せ掛けの力強さ。
体の自由な動きを犠牲にする。
決して強みにはなっていない。


動作は機械的になる。
自然な動きがなくなる。


過度に緊張した筋肉が内なる鎧になる。


多彩な自己表現をするためにエネルギーを使うといい。
だが大きな筋肉の鎧を身にまとうと、
自己表現を押さえ込むように作用する。
自己表現がうまくかなえられないときに、
自己表現をする楽しさや喜びが薄れていく。


そのときに自己表現にエネルギーを使わずに、
自己否定にエネルギーを投入してしまう。
非現実的な「できない」という感情が先立つようになる。


本当は「できない」のではなくて「やりたくない」だけ。
体が重荷を背負うことで「やりたくない」だけ。
「できる・できない」はやらなければわからない。
現実的には「やりたくないだけ」なのに、
非現実的な「できない」という言葉がでてきやすくなる。



それが体の鎧をおろしていくと、
「できない」という言葉づかいが多かった人が変りだすときがある。
「ちょっとそれやりたくないな」といいだす。


      • -


表面的には同じ両者とも「できない」という内容です。
ですがこのような言葉がでるようになると、
ワークをしていて心の鎧もおろしたんだな、
ってジ〜ンとしてしまいます。


体が解かれて言葉づかいが変った方に共通すること。
自分が変化した認識がないことが多いのです。
もともとのその方の本来の考えができるように、
元返っただけだからでしょう。


人格や思考は何一つ変わっていない。
ちょっと考え方がすっきりまとまりだしたかな程度。

      • -


体が鎧化している時点で、
『苦痛はすでに患者の体の中』にあります。


無駄な鎧があれば気持ちの弱さやイライラが募ります。
そして自分を明るく楽しく気分よくさせる能力を失う。
人生の意味を奪いさるものでもあります。


でもそのしこりも自分自身なのです。
苦痛も大切な意味があると思います。


ワーカーがワークをしたとき。
体内に巣くった苦痛を発見いたします。
つらいことですがそれも現実ですよね。
それも解ってみれば意識的に解放する作業をすればいい。


そういうこともありますよね。