イラストレーターの友達との会話

本日、少林寺拳法を習っている方がお見えになりました。


お客様として来ていただいて以来、
共通の友達がいることも手伝い、
お友達付き合いをさせていただいております。


2年前、
彼と私と関根とで、
とある気功クラスを見学に行きました。
(これもまたお客様が通っているというご縁で見学させていただいた運びです)


それ以来、彼は週一度のペースで修練を続けています。
頑張ってますね。


彼はイラストレーター。
正確に言うと生計は他で得ています。
思うようにいかないところだそうです。


ただ彼の胸の内側にあるエネルギーのほとばしりはたいそうな物です。


彼と会う前に共通の友達に彼の作品を見せてもらいました。
作品は胸の内が苦しくなるほど迫ってくるペン画です。
ペン画でこれほど印象強い作品を書く人を知りません。


線に命が宿っていて、
奥から訴えてくる。
テクニックで造られた物ではなく、
彼の内側からほとばしりだということは初めてお会いしたとき感じました。


そこで彼と会うと必ず体幹の自律神経ラインを活かすことで
自在に手先を使う方法について話をします。


先だってマウスを手首で使うというところの延長線上にある原理です。
それをより奥を見つめる話です。
手先を脳化するとかちょっとわかりにくい概念を話します。


書くときに手先を体の体幹と分離して動かしてしまうとダメです。
体幹をコントロールすることで手先を自在に動かす。
そこにこだわり続けます。
なかなか面白いんですよね。


体幹を動かすことで手先を動かすときは、
体が画板やスケッチブックのほうに体を近づけようとはしません。
そんなことをする必要はないのです。
見つめている画板などが自動的に拡大して見えてくるから。
『グングングング〜ッン』と音がしそうなほど大きく見える。


体幹の動きと手先の動きがリンクしていないときはどうなるでしょう。
手先と体幹が連動していない。
手の指先に不自然な動きを強いることになる。
不自然に手先を動かすには多くの脳力を必要。
すると第一に手先を観ようとするようになる。
第二に一点集中するための脳力が出ないため、
気が散らないように目を画板の近くに移動させる。
体を前傾して近寄ろうとするのです。


ディスプレーをみるときもこれは言えています。
腕の使い方が上手くできない方は、
たいていディスプレーに近づいていこうとする。




腕の使い方とディスプレーの近さが比例するというのは、
ちょっと乱暴な言い方かもしれませんね。^^;
ですが腕の使い方がわかり始めると、
たいていの方が背骨がシャンとする。
それが苦もなく長時間キープできる。
もちろん作業姿勢もよくなるのです。
その改善する姿をみるとあながち遠からずのところもあると思います。


体幹と指までが連動していれば
一連のパッケージされた一つの流れに沿った動き。
そこには意識の途切れる分断がありません。
だが連動が途切れると脳と手先が別々に意識して動かさざるを得ない。
クリエイティブへ意識を集中させたいのに台無しです。
使いにくい手先を使おうと躍起になると、
せっかくのイメージがぶれたり薄れたり忘れたりする。
自分の作品らしさが曇ってくる。


うまく体幹を活かすということはどういうことでしょうか。
胸骨から伸びる鎖骨を動かし、準じて肩が動きだす。
肩甲骨を外側へ内側へ移動させる。
肩甲骨をどのポジションに置くと、
どの手の指が動かしやすくなるか、
腕がどのように伸び縮みするか違いがある。
その違いを理解していて手先の意識を消して、
体幹に近い部分を繊細にコントロールする。
腕や指先はそのコントロールに従う。
するとあたかも手がふっと自分の意識から消えている。
見つめる画板などを見つめてどのような絵が現れるか想像するだけで、
勝手に自分の手がその作品を仕上げていく。


作品を書いていても心地いい。


・・・というようなマニアックな話を彼とできるようになりました。
とてもいい傾向です。^^;