『肉体は水のごとし』

『上善は水のごとし』


これは老子の言葉。


老子では最もよい善を、水のようなものだと言います。
水は、万物の成長を助けて、しかも他と争ったりたりしない。
そしてみんなの嫌がる低い場所にいます。
だから、道にちかい、ということです。


ちょっと読み方を変えてみました。^^:
一番始めこの言葉を聞いたときに、
私の脳裏に思い浮かんだ言葉です。



『肉体は水のごとし』


です。



意味合いはまったく老子とは異なります。^。^;


肉体の内部は水のごとく滞りがなく流れていなければならない。
肉体の場合には、体液(血液・リンパ液・組織液)が仲介役です。


肉体をうまく使う人を観察しましょう。
すると実に柔らかい動きをする。
動きに水の流れが感じ取れる。


肉体を動かすときに「こだわり」がない。
「こだわり」をほぐせば楽に動き出す。


こだわりがない動きの様子が私には、
水の流れを感じてなりません。


たとえばらせん状に動くのが自然な動きとして造られた筋肉の場合。
らせん状をもとにして動けば、
水の流れがその中に感じられる。
巧みな体捌きとは肉体を水に捉えて、
こだわりや滞りを持たずに流すこと。
体の使い方の修行とは、
こだわりや滞りを手放すこと。
そうすれば肉体の機能をフルに使うための基礎設計通り使える。


ですがそれを無視して直線的に動くようなこだわりがあると、
水の流れが感じられなくなる。
ぎくしゃくとした動き。
そこにしなやかで美しい生命力が感じ取ることができません。


私は体が疲れているとき、
筋肉が炎症を持って痛みが出ているとき、
こう思います。


『体の中が流れてない(流さなくっては!)』
『筋肉のこだわりが抜けてない(こだわりを捨てなければ!)』


『こだわりの一つ。
さっきまでの動作はさっきで終わり、後まで持ち越さない!!』


体をぎこちなく使っていると思えるとき。
そのときもいつも心の中で『肉体は水のごとし』と唱えています。


すると清水が体の中を流れ、
こだわりを静めてくれる。
そのようなイメージが描かれていく。
そして動きの質を取り戻せるように感じます。