基礎部分の修繕と階段の修繕の共通感覚

基礎部分の修繕と階段の修繕の共通感覚

家の修繕の続き。


先だっては階段のぐらつきを修繕した。
材料費は100円ショップで買ってきた釘のみ。
本当は角材を買ってきたいところであるが、
予算の関係上これでもよしとすることに。
完璧な修繕とまではいかないが、
まあまあの状態にまでは収めた。


階段下にもぐり込んで、
外れたり落ちそうになる部分を裏側から確認。
ギシギシいう不穏な音の原因を究明。
すると押さえ材が外れているものと、
釘打ちが不十分なところを確認した。


まぁもぐり込んだ瞬間は、
いったいどうやって治せばいいの!?
と正直頭が真っ白に。
ただ先だってから掃除道を見習って、
部屋の掃除を丁寧にしていたお蔭で、
気になる場所を徐々に探り出せた。


もちろんほぼ正解でした。


本当は根太のような角材を仕入れたらより強固な作業ができたことだろう。
その点が残念でならない。


そして階段をある程度仕上げた後に、
階段を昇り降りしてみる。
すると、、、
ごく普通の階段になっていた。


実はもっと感動できるだろうと予想していた。
期待もしていた。
気になって仕方ない危険ポイントが、
これで解消できるのだから当然感動するはずだ。


だが階段を登ってみても、
ごく普通の階段を登っているとしか感じられない。


・・・。



部屋などは整理して見栄えが変ると、
大きな感動を受けた。
以前私どものところへお通いいただいた方々が、
こちらへ来ていただけたとき驚く方もいるはず。
モノが減ってシンプルに整理されている。
ごみ袋10袋〜20袋分は処分した。


外見で見える部分が変ったときには、
その変容に大きな感動を呼ぶものでした。
数日すれば見慣れるのですが、
整理されたその日の気分はとても最高だった。



だけど階段という、
階段の板が抜け落ちたら大惨事になるところが改善されたのに、
極々普通のこととしてしか感じられない。
家の者も何もいわずにタッタッタッと登っていくだけだった。


その不思議な感覚を噛みしめたとき思いました。
『目に見えない基礎の部分。
そこを補修されても感動はないか薄い物なんだ。
不安が消えてもそれは当然のあるべき世界に舞い戻っただけ。
基礎の部分をなおすということはこういう感覚なのかもしれない』



実は普通の施術院ならば不都合なところがここなので治して欲しいという
訴え(=主訴)をきいてそれに対処します。
でも私は主訴よりもお客様が見えない部分や気づいていない部分を、
掘り返してケアするのに時間と労力を使います。
そうすることで同時に主訴も改善していくものなのです。
自分ではこの基礎部分が問題があれば、
かならずその欠陥は大きくなる。
現在の問題とは比較できないほどのことがおこるだろう。
それは酷使された金属が金属疲労により早期故障するにも似た現象。
その不穏な種を見つけて今のうちに摘み取る。
将来的につらくなるはずのやっかいなひび割れを埋めたり、
縁の下までもぐり込んでなかを開けてみて基礎を固めた。
そんなことをしていると時間が膨大にかかる。


もちろん時間をかけずに、
主訴だけを要領よくケアする方法はあるしそのテクニックも使えますよ。
ですが私には基礎工事部分の状態を観て改善することの大切さを感じます。
しっかり手入れをすれば長く快適な状態を保てることを知っているのです。


でも主訴が改善された分くらいのことしか
お客様のレポートに書かれていないことが多い。
鋭い感性を持つ方もおられますが少数派です。


実は施術者友達にワークをしたときもそうだった。
この不穏な種を摘み取ったのに気づかれていない。




いったいこれはなぜ?



昨日、階段を修繕して普通に使えるようになったときの感動の薄さ。
おそらくこんな感覚だったのだろうか。
そう思えてきました。


基礎部分の仕事は地味に効いてくる。
デモンストレーション的な効果は見えない。
そういう性質なのかもしれません。


ワークで改善されているところがお客様に見えているから、
再度お越しいただけるのです。
でも本当に私が観て欲しい通好みの^^;ところに気づかれることが少ない。
気づいて欲しいという欲求はあるのですが、
「ねっ。ここよくなったと思わない」とか言いたくない。^^;


一番気づいて欲しいところはここだったりします。
そこに気づいて評価してくれた瞬間、
こちらは瞬時にルンルンモード。
喜びが顔にでてますからね。


でも気づかれなくても、
それはワークを受けたお客様のせいではなく、
もともとが階段の修繕と同じようなものです。
普通に使い勝手がよくなり瞬時にそれを受け入れられる。
それが基礎部分の修繕というものなのですね。
そう勝手に痛感しております。