「借力」感覚で立つ瞑想もいいかも

姿勢を整えるときに大切なこと。


骨の並びを整えてからの脱力をすること。


膝が曲がっていたり腰が反りすぎていれば決して脱力はできません。
首が伸びていなくても脱力はできませんし、
肩が緊張してあがっていても難しい。


自然体で立つには骨格的にここしかない正しい位置があるのです。
関節が一様に深くはまる位置をキープしていて、
骨どうし縦に一本一本支え並ぶ様子が見えます。




姿勢を整えるための筋肉以外の筋肉の力を抜ける状態が『脱力』です。


脱力をしているときの感覚は、力を発揮している感覚がなくなります。


起立などの骨を繊細に動作させる部分の筋肉群は細分化され
脳や脊髄が自動計算して動いてくれるシステムになっている。


感覚刺激は立つなどの常用行動はことさらに過剰反応しない。
反射や無意識行動などに支えられて制御される、
姿勢筋独特なシステムともいえるでしょう。


体の背面側に姿勢筋群があるのでそちら側の感覚は薄いが、
体の前面側にある体を意識の力でコントロールしなければならない部分は
刺激を感知する感覚器官が宝庫の状態です。
感覚神経分布が体の前面と背面では違い、
前面のほうが多いのです。
これは解剖学的な問題だからそれを受け入れるしかない。^-^;


だからついつい感覚が強く感じられる体の前面に
力を入れて緊張させて立つようにしたくなる。
『わたしが・・・・わたしの意志で・・・・』
と念じながら立つと余分な体の前面の筋肉に緊張が走る。


立つには体の背面の筋肉を活かし前面の筋肉を緩ませる。
そうすると体の前面の筋肉の緩みが特有のセンサーが弛緩して
よ〜く働いてくれるので微妙で繊細な体の水平軸を割り出せる。



大切なことは必要な筋肉を使うことと同時に余分な筋肉の力を抜くかです。


余談ですが朝鮮半島では古くから「借力」という行法があるといいます。
どうしてもわたしは力抜山を思い出してしまうのですが。。。
借力は奥行き深い考えに基づいているそうだが、
そのひとつに、
地球に絶え間なく注ぐ神様のエネルギーを応用し借用する考えがある。
引力といってしまえばたわいもない話となるが、
地球に絶え間なく注ぐ神様のご意向ととらえるとありがたく感じませんか。


常に神様のエネルギーを借用して応用すれば我が消える。


とても自然の力を受け入れて一体化する妙を感じます。