『他力本願』のいろいろな解釈


他力本願とは


『他力本願』というと日常では、
「ひと任せ」や「他人依存」などの意味で使用されています。
本来の浄土教で説いた『他力本願』の意味を離れた失礼な解釈です。


とある本で『他力本願』を次のように説いていました。


ちょっと正確にどう書いてあったか思い出せないので、
私なりの脚色が入ることをお許しください。


人は誰もが『他力本願』でなければ生きられない。
乳飲み子として生れ落ちた私たちは、
誰一人として一人では生き抜けない。
今日の食事のご飯や魚や野菜も他の人の力により作られ届けられた。
身の回りにあるもののほとんどが他の人の力により作られ届けられた。
それらがすべて失せてしまえば生きていくことができなくなるだろう。
そうやって私たちは誰もが生かされている。
他の人とかかわり社会生活が送れている。
多くの方々のお蔭により生かされる自分を振り返り、
感謝の気持ちを抱いた様子を『他力本願』という。


そんな解釈でした。


これも本来の浄土宗の説教とは異なる解釈なのだと思います。


ですがそこには他人任せや他人依存とは違う、
明るく素直な感謝の気持ちが描かれています。


『他力本願』をこのような考えで受け入れて、
日頃より感謝の気持ちを豊かに感じられる人は、
同様に『他力本願』で生きる人に出会う機会が増えていきます。
一種のシンクロニシティのようなものでしょうか。
幸せな気持ちでいられるようです。



他の人にお世話になり感謝の気持ちから恩返しをしたくなる。
自分がしていただいた他人により願いをかなえていただいたことを
今度は自らの仕事や努力で他の人に恩返しさせていただきたくなる。


本来、社会というものはそのような相互の『他力本願』の念により、
支えあっているものなのかもしれません。


余談だが施術をしていても明るく素直な他力本願の気持ちを持つ人は、
とても体がリリースしやすいと私の友達の施術者さんもいいます。
それにはいろいろと理由があるでしょう。
積極的に自分のすべき責任を果たしたうえで
それから他のものの力を借りるようにしている。
そんな姿勢が見えてきます。
だからなのでしょうか。