ふとももの横のでっぱりや固い部分がゆるんだ

スティル・テクニックを研究していて。


腸脛靭帯の上部や中臀筋や小臀筋をうまくリリースできないか?
という場面での役立つ方法を見つけました。



脚部の外側広筋、大腿直筋などが外側に張り出しているとき。
ここを筋膜マッサージだけでリリースしようとしても、
ある程度の量は削り取れるのだが、
深部の骨近くまで届くのは難しい。


それが深層までリリースできるようになった。
自分でも「な〜るほど、こんな解法があったんね」という感じです。


鮮やかな成果を見るとうれしくなりますね。


数年かけても難しいリリースが、
数分かけてただけで数年分以上のリリースできた。
まだまだ完全ではないのですが、
進歩しているという実感がある。


サディスティックに緊張した患部が
愛を感じ緩みだすように柔軟性を取り戻す。
ほっと一息をつけるときが訪れましたよ。


といってあげられるような感じです。




施術のテクニックは、
スティル・テクニックの臀部筋周囲のリリースや
股関節部位の関節モビリゼーションを混ぜました。
あとは触れて合気をかけて動かすという技ですね。



ただここで疑問ですが、
なぜこれほどリリースを拒むような強烈に硬い状態を
維持し続けようとする部位があるのでしょう?


時として強く強く緊張している筋肉の部位は、
常にそこの筋肉に脳が
「骨になれ!骨になれ!そして我に使えよ」
と過酷な命令を受け入れてしまっている。
(脳はもうそんなことをせよと情報を出してないにもかかわらず、
筋紡錘装置の誤作動が骨になれ!といい続けてるときもあります)


そこまで強い命令を下さなければ生活できないときや
そこまで固めなければ強烈な不具合をこうむる関節や神経などが生まれ
必死にそれらを守ろうとしている。
そんな場合があるのです。


緊急避難的につぎはぎのパッチをあてて
根底の問題を解決はできずにいます。
根本的改善をしているわけではない。


いったんこれを作ると本来の問題部と筋肉硬化部の双方が
水面下でおのおの状況が悪化へと進んでいく仕組みです。


自己保存本能の一環で対応していて無意識にしていることです。
だからまったく自分は何を守るためにその部分を固めているか
またはずっと繰り返し固めてなぜその固めていたほうが安心に
感じるようになっているかさえもわからなくなってしまう。


そんな状況のときがあるのです。



筋肉が骨になれと無茶振りした命令に屈し
筋肉が骨のように固まったり盛り上がる。
水分を失ってスチール線のように変化する。


その過酷な状況が長期にわたれば
正常なその筋肉本来の機能を遠ざけ
骨という支え材でい続けようとする。


それを見て「なんでこんなところに、こんなのがあるの?」
と不思議に思えてきてしまうものです。


「なんでこんなところに?」というような
他人がそれをこさえたと他人行儀に思えるうちは
他人の仕業と思える自分の力に屈してしまいます。
そして元のしこりが復活します。


筋肉を硬くしこりにしたのは多くが自分の責です。


自分の仕業と受け止めれば、
自己を客観的に洞察できる。


いずれ”痛み”や”不快感”は、
自分を苦しめたいのではなく、
”快適”な体へ至る道しるべとして有用と気づくでしょう。



ある程度の筋肉痛のような痛みは友達です。


深慮すれば痛みとは快へ向かう方法を指導する役人とわかるでしょう。