体の使い方の癖を乗り越えるには


「歩き方」や「立ち方」そして「座り方」などを含めた所作振る舞い。


赤ちゃんが歩き出すときには、
未体験ゾーンへの突入でした。
ぐらつきながら立っていたが
一歩、そしてもう一歩。


足を前にぐらつきながら送る。


すたすたというのではなくて
よちよちというような感じで。
一歩ずつバランスを崩して立て直す。
それを繰り返す状態がよちよちです。
試行錯誤をしつつ体を制御している。


数十年も歩いてきた大人ならばどうでしょう。


すでに体のバランスは必ず一歩ごとに崩れているが、
無意識のうちに立てなおしてすたすたと歩いている。


そんなとき「理想の歩き方とはこういうものです」とアドバイスを受けた。
すぐに今までの無意識のうちに体を使う使い方を手放して
理想の歩き方に変えられるでしょうか?


多くの場合は、
無意識に今までの歩き方を繰り返したほうが安心感という快楽を感じます。


繰り返した体の使い方のパターンを持つということは?
そのパターンの動きをするときには
動きをしやすいような筋肉が育っていますし、
神経の伝達経路もしっかりしているわけです。
一度完成したものを信頼して使い続けると、
そちらばかりをほとんど無条件に受け入れる。


たとえ体のねじれがあったり骨盤の前傾があっても重心取りが悪くても。
いったん繰り返して無意識に動くプログラムをもってしまうならば、
そこからは安心感という快感を得てしまいます。


自分がいつも通る駅までの道は目標物を意識しなくても歩けるが、
近道をしようとして未知の街で迷子になれば不安になる。
あたりを必死にキョロキョロして、
エネルギーを使い緊張もします。


不安は不快なのです。


したことのない馴染みの薄い動作、
つまり立ち方や歩き方などの所作振る舞いをすることは、
不安感が潜在的に芽生えているものなのです。


もし迷子になったのならば安心して自分の位置を知るために地図を持てばいい。
その地図を見ればこれから進もうとする道の行く先は、
正反対の行き着いてしまい遠回りするという不利益がないことが分かります。
むしろ地図があれば近道が正解かどうかをりかいでき、
今までの駅へ続く道を通るよりも素敵なことがあると。
そんな発見をすることがあるかもしれません。


地図を持ってその振る舞いの全体像をズームインとズームアウトを繰り返し、
自分の進むべき最良の道を見極めるセンスがついたならば、
自然にその道を選ぶことと同じようになるわけです。


地図の全体をズームインとズームアウトを繰り返す見方ができないならば、
今までの道を使い続けるのです。


これは私が自宅から池上本門寺に散歩をするコースで感じたことですが、
かつては学研通りを通っていて急勾配の坂道を昇り降りして大変でした。
ですが今は貝塚坂を通り道にしたところ勾配はささやかなものになり、
行き着くまでの時間が20分も短くなりました。
体力的にもまったく楽です。


地図を見て状況をわかるようになれば道は得られます。


体の使い方につきましても、
本当はそういったことです。
しっかりと体をズームインとズームアウトを繰り返して見えてくれば
そのときに「これが理想に近い体の使い方ですよ」という意味がわかる。
それがわかってそうしたほうが絶対に徳だからそうしたい!という
感情が芽生えない限りは、
なかなか人間の動き方の癖は変わらないというものなのです。


私は自分の体でそのことを確認しています。
どうすると徳だということが認識した瞬間、
それをそうするのが当然と考えます。


今までしていた動きは「百害あって一利なし」と捨てられていくのです。