体を整えてから身の処し方を考えたらいい

昨日は、田町の亀塚稲荷までの散歩へ。


散歩の途中で、
ベンチに腰掛けたり境内の縁石に座り、
プリントアウトした暗記するために持参した経絡詳細を読みこんでいる。
『病気よ、さようなら』の経絡詳説部分で、
縮小プリントしたもので20ページほどだ。


覚えることがかなりある。
だがこれを知っているかどうかで、
体の読み方が雲泥の差が出てきます。


だから定期的に再読して記憶を正確にしておくようにしているのです。


それに記憶ものは家の中でするよりも、
環境を変えてテンポよくしたほうがいい。


たとえば、、、
肺経と大腸経は亀塚古墳の上で記憶した、
というように場所の記憶をいれておくと、
それが思い出すときのトリガーになります。


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散歩をする意味はそれだけではない。


いろいろと考え事をするときには、
少し遠い距離を歩いてみるとよい。


インスピレーションは、
ふとしたときに思いつく。



袖ケ崎神社の境内にて。


『人身は整えうる。

整わずして迷うより、
整えられた者となりて、
その身の処し方を得るべきものなり』



そのようなことが脳裏に浮かんできた。


この言葉がすっとでてきたとき、
素直に納得することができた。


自分が施術を生業にしているからというわけでは断じてない。



たとえば経絡の勉強をしていたからそれに関係して述べれば、


経絡のひとつ、
肺経絡が実と虚のバランスがとれていればよい。
もし虚実がバランスがくずれていたとします。
するとすべての経絡の調子が悪くなります。
ならばちゃんとそこを整えてしまえばいい。


整えることができるものですから、
きっちりと整えておいてから動く。


調子が良くなってから行動したほうが、
その人本来の天真爛漫な力がでてくる。


もし肺経に問題があれば自分ではどうしようもなく、感情が動かされる。
たとえば次のような感情が現れてきてしまうのです。


『他人を責めたくなったり、自暴自棄になったり、常時弁明をしたり、
思考が不鮮明だったり、他人と比較したり、軽蔑したり、落胆したり、
うつ傾向になったり、絶望を感じやすくなったり、同情をし過ぎたり、
その他、いくつもの感情的傾向が出てきてしまう。etc....』


肺経に関係する部位が的確にバランスがとれるようになれば、
不思議とこのようなともするとネガティブな感情が沸き立たなくて済む。
そんなことも生まれてきます。
そのような成果がでることを、
私は臨床例で見ております。


整えられた体が
感情をも整える。


そのような相関関係がある。
興味深いところですよね。


他の経絡に問題があれば、
その経絡に関連するようなネガティブな感情に火がつく。


「人は感情により進化してきた」という本がありますが、
それはまさにそうだろうなと思います。


感情によりいつの間にか自分がコントロールされている。
合理的かどうかなどという評価がそこにはなされてない。


そういったようなこともあるというところから、
感情面でのバランスがとれているときならば
身を処することが適切で後悔がなくなるはず。


そういう状態になるための手段として、
体を整えることも積極的に採用すべき。


私は、今までの感情面にプラスに働いたお客様からお聞きした話から、
それは有効な手段になりうると信じることができるようになった。



ただこのような感情面の変化が持続的に維持できるには、
体の深部にある骨格の配置を決める部分が鍵であることも気づいた。


つまり経絡の虚実を整えることで深層筋までのアプローチをした時と、
そうはしなかったときと比較すると、
その差を実感することができました。


それは相当に深層筋が硬くてという方の場合の話なので、
そこそこ深層筋が硬いという程度の人は、
そこまで深いアプローチをしなくても改善します。
ですが、昨今の虚実で申せば虚証が強い方々が、
世の中にほんとうに爆発的に増えていますから。
そうなると深層筋まで解かなければ、
経絡の抑圧による体から来る感情のダメージを改善させることがしにくくなっています。



これらは私の独自の見解なので、
諸先生方は異論もございますでしょうが、
きっちりと時間をかけて手をかけたとき。
感情面までの改善が幾許かでもなされていく。


それはありがたいことのように思います。


そういう私も、
自分で体の使い方をスキルアップさせたことで、
そうとうに経絡の流れの状態を昨今では改善できました。
それにより感情面は、数年前とは比較にならないほど安定しています。


「なにかやってみたいな」というような、
気持ちに素直に移行することができます。


そんな自分、好きになれますよね。