ものは、いいよう。

聖路加国際メディカルセンター理事長・聖路加国際病院名誉院長として著名な、日野原重明医師。
高齢にもかかわらず精力的に講演会をおこなう。


昨日、私の母と姉が目黒の教会で日野原医師の講演があるとのことで拝聴しにいった。



講演をするとき、観衆の顔を観て反応を知り、
話す内容を補足するか、そのままでいいのか。
幾度も講演会で講師を務めると、
表情が解らなくなるマスクはありがたくはない。


だからマスクを外して欲しい。


講演会冒頭で。
日野原医師:「皆様の、素敵なお顔を見たいので、マスクをしている人ははずしてください」


私の姉はマスクをしている一人でしたので、ほほえみながらマスクを外した。



まさに北風と太陽の太陽の表現をとることで、
マスクを外す人も気分よく外すことができる。


ものには、言いようというものがあります。



言い方を選ばずに、
ぶっきらぼうに「マスクをしてると講演しづらいんですけどね」といえば、
おそらくマスクをしている人は、そそくさとマスクを外したことでしょう。
ただしマスクをする側にも理由があるのですから、
脳裏では
「私は花粉症だからしかたなくしてるだけなのに」、
「風邪気味だから、マスクしたほうがみんなにうつさないと思ったのよ!」
などの反発したくなる気持ちがわいてくるのは当然でしょう。
それでは姉はその後は居づらい気持ちで時間を過ごしたはず。



大人になって Win & Win の方法を選ぶか、
子供のままの視点で生きるのか。


日野原医師の、老獪さと育ちのよさを感じ取れる第一声は、
それだけで多くの観衆を惹きつけるに十分だったようです。


 

口の利き方ということは難しい。


人との会話でボロを出したくなければ、
けっしてしたり顔で物を語らないこと。


そのような考えは、
施術をするもの同士でもそうなります。


他の先生の施術については、
一切の講評は挟まないこと。


臨床に慣れていない方が施術をなさっておられても、
私は「なるほど、なるほど。そのような手があるのですね」ということで、
結局、私自身の都合で批判よりも自己成長をするための気付きに使います。


ものすごく素晴らしい施術をなさっておられる先生でも、
この私のご都合主義は変わりません。


したり顔ででしゃばるよりも、
ひとつでもふたつでも、思い浮かんだ気づきを確認する。
そこに注意を払うだけ。


相手を批評できるほど、
相手の考えをききだしたわけでもないですし、
それぞれがそれぞれで、
今の自分を基準にして、
はじめの一歩を踏み出しつづけているのです。


それを他人がずかずかと「俺の基準はこうなんだよ」と割り込むのは違反です。
そうはしたくはないですし、されたくもありません。


なので余程でもない限りは、
特に「あの手技はよくない」といったネガティブな話に対しての同意はしない。
もちろん私からそのような話を持ちかけることはないでしょう。


私は、「わからないです」というだけです。


ただ、日野原医師ならば、もうちょっと気の利いた言葉に置き換えて表現されるでしょうね。