自己観察力に優れたモニタリングとお問い合わせ

人とは、面白いものです。


自分が病んでいることを気づかないで、
他人の病んでいるところを見て
「あの人は、病んでいる」という。
そして陰口をという人も多いもの。
それができる土台となるのは、
レベルダウンされたモニタリング力があるからです。


なぜだろうか。


他人よりも自分が健康的で優れているといいたくなってしまう。
実は、その言葉がことさらに出てしまうときは、
自分の内側に芽生えた病の不安感をかき消す材料のように他者のことを語っている場合があります。
その自分の内側に沸き立つ不安は潜在的なものか顕在化したものかはわかりませんが、
他人のことをとやかく言っても、益のないことです。
もし言っているのがバレたら、害にもなりますから。


問題が生じた部分をとじぶたで封印したようなもの。
内在した問題は解消される「奇跡」が起きなければ、
放置した分が雪だるま式に問題は着々とつみあがる。


つまり問題解決のための適切な対処とはなりません。



では、問題解決のための一歩を踏み出すためには?



自分の現状を把握して変わろうと決意する。
それができるのは自分を客観的に『モニタリングする力』があるということです。


自分の身を観察眼も鋭くチェックして適切な対処をしたら、
その結果が返ってくる。


正確に分析し自分の姿を見るには知恵や知識も必要ですが、
それ以上に勇気が必要だと思います。


たとえば、、、
健康診断で、糖尿病予備群といわれたが
改善手段をとることなく過ごしたならば。
次回に健康診断を受けるときは、ハラハラ・ドキドキです。


健康診断を受けることが及び腰になります。



今の時代ではネットでもテレビでも書籍も、
多くの健康知識があふれんばかりですから。
「自分は、自分の身を考えてできるだけの対処はしたから、その結果を知りたい」
という気持ちで健康診断を受けることができるかどうか。


問題に対して、正面から向き合う、半端を許さない人と、
そうとは言えない人では、健康診断を受ける潔さが違う。 ^-^


そう思いませんか?




ただ、実は本や映像は、自分の知りたい知識を獲得するにも、
ちょうど知りたい部分がどこにあるか気づくにも全部読破し、
ここが重要かなとラインを引いてみて、ラインが多量に引かれた状態で混乱することも。


それは私もよく経験することなのですが、
自分の現状にとって必要な知識のみが得られるものではなく、
相当、自分にとって無駄なところばかりが描かれているもの。
その無駄な部分に読む気を失せて、積読中になることもある。
映像についても、そういうことがいえているでしょう。


つまり情報の量が増えすぎた今の時代は、
ありがたい反面、
ひとつの適切な検索語を得られなければ、
正解にたどり着けずに遠回りをして疲れ果て、
せっかくやる気があったにもかかわらず諦めてしまう。
または熟知したものが観れば、
どうもそれは間違いだという、
誤答を正解と誤認しています。
書籍等の情報はなま物で、賞味期間があります。
それでは問題解決のための適切な対処ではない。。。




そういったときには、メンター的な存在が必須となります。


優れた才能を秘めたメンターとの出会いは、
10年以上も自身で考えぬいても思いつかなかった事柄を、
ここに私が考えた答えがあるから参考にしてほしいという。


そのアドバイスには、
視ている視野や広く行き渡る深い経験に裏打ちされている。
思いもつかなかったことを言われて驚くこともあるだろう。
そのようなとき『目からウロコが落ちる』感じになります。


そのようなアドバイスは、
時間も労力も、それに金銭に換算すると、
多くな利益を受けることとなるわけです。


自分の知識や感性が磨きをかけてもらえるメンターを持ち、
自分の現状の立て直しの知恵を貸して欲しいとお願いする。



メンタルやテクニカルサポートができそうな人を見つけて、
積極的に連絡をとる。


多忙な現代社会を生きている人々に、
利害関係が合致しているようなとき以外は
なかなか適切にメンターとしての役を果たせる人もいない。
自分の頭で考える労を惜しむものはメンターを持てません。
人の成長期に自分の力を提供できる喜びがメンターの支え。
だから成長するプロセスにいないと判断されたならば、
自分の労をそこで使う気にはならないのです。


ただ真剣さと情熱が伝わってくれば、
返事をもらえるときも訪れますから。


素直にそう願い出ることが出来る人は、
自分でも体の変化への期待も多きから、
取り組みが積極的で人の話も聞けるし、
やる気がみなぎっているから可愛がられることも多いのです。



個人的な話となり恐縮ですが、
以前から、私の知り合いの優れたメンタルサポーターをしているI氏からは、
そのような素直さと柔軟性と情熱、そして自分に必要なものと縁を結ぶ嗅覚、
頭がさがるとしか言いようもない。
I氏の身の中に蓄積していかれた知財に人材に、その他の多くのリソースは。
ものすごいことになっていることだろう。



そしてもうひとり。
ただ最近、
数通のメールのやりとりをさせて頂いている高校生がおられるのです。
この人も、自分の体へのモニタリング力を基礎として、
体の状態の改善を取り組むアイデアと行動力には脱帽。


メールの文章を読ませていただくと、
しっかり自分の現状を観察し伝えることができている。
それに対して出した対策を考え実際に実施しているが、
それが自分の身にどう返ってくるか。
その点について、私の方に、
教えてほしいのだがという内容です。


相手にも答えやすいようにしてあり、
質問者として筋が通っているんです。




自分の体について詳細かつ綿密な現状把握をすることはなかなかできることではありません。
自分のつらいところをまざまざと眺めて書き記すことも、気分のあまりいいものではなくて、
本能的に見ないようにしようとする傾向があるようです。


だから施術院等にメールで質問が来るときの多くは、
「腰がいたいのでどうにかならないものか?」
という短文の文章を送っていただくことがある。


現状把握を綿密にできる人であれば、
そのレベルに合わせたことを申し上げたい。
ですがあまりにも情報が少ないと、答えようがなくなります。


エス・ノーで判断して答えられるようなクローズされた質問は答えやすいのです。
一見するとオープンな質問に見えるようなことも、
体についての情報量を多く提供してくれている場合は、
私の頭のなかではクローズ系の質問として考えられる。
だからありがたいものなのです。


答えの幅が広いオープンな質問は、場合の設定がなければいくらでも広げて回答がかけてしまう。
短文で腰痛がどうにかならないものか?というものは、オープンな質問の一種なのですね。
それでは、腰痛関係の本、一冊分に匹敵する文章を書いて送りつけることになる。
内臓痛からくる深刻な腰痛もあれば、急性の自然治癒力で十分なものもあるし、
幾つもの場合分けができてしまいますから、それらすべてに対して答えるのは。。。
と、一瞬、思考が止まってしまうのです。


オープン系の質問を受けても、
来ていただければわかりますからと
あしらうようなことはできるでしょう。
ですが、それでは何らの改善する理由の提示をしたことにはなりません。


だから施術院側の印象がさほど良くは映らず、
回答をしても、ほとんど、来ていただけない。 -_-;
そのような例が多すぎると、
施術者同士で頭を抱えてます。


それに対し、モニタリング力がある自己観察力に優れたお客様は、
説明をして理解をしていただければ、
困難な場面を迎えても真摯に打開策を協議できるし、
相対的に改善が早い。
施術者がわからしてみると、
信頼できるお客様だという
見方が成り立つのです。


私もモニタリング力を持っておられる方からのメールをいただいて、
回答するということは意義が深いことと考えています。
私の仕事の多忙さからレスが遅れることがありますが。^-^;


別に私の施術を受けていただくことがなくても、
私が答えられる範囲内での質問は、よろこんで!
というところです。


ただ、、、私が高校生の時のことを思うのですが、
私が高校生ならば、メールという交流する機会があったとしても、
「調子悪い〜」と、部屋でバタッと倒れて過ごしていただろうし、
なんで自分がこんな現状に甘んじているのだろうかと、
恨み事のひとつもいいたくもなっただろう。。。


先日、企業の社員研修プログラムを実施なさっておられる方から、
昨今の若者には本当に覇気がなくて困りますといわれてましたが。


自分のことを、きっちり自分でやってのける意思と責任感を持ち、
施術院へメールを送るというのは、評価できることと思いました。


清々しい姿ですね。