屈筋主体で、緊張してばかり。
私は以前、そうでした。
だから疲れっぱなしで、
友達からも「いつも疲れてそうだよね」といわれて、つらかった。
でも、子供の頃から、特になにかした覚えがないのに疲れていた。
その理由がわからなかった。
でもたまたま合気道の吉丸慶雪先生の本を見つけた。
そこに「屈筋」と「伸筋」という、
筋肉を分化して考察するという見方を教わることができた。
「もしかすると、私は屈筋ばかりをつねに極度緊張状態で使っているのではないか?」
そのような視線を自分の身体に向けてみたとき。
そこで私が変動する大きなきっかけを得られた!
私は子供の頃から体が極端にきゃしゃでしたから、
体力はなかったし、それでは気力やテンションも失われていた。
そして数十年以上かけて、少しずつ屈筋主体から伸筋主体へと、
身体操作の誤操作の可能性あるところをあぶりだしていった。
すると気づいたら、
ひ弱な過去と比べれば、
大幅に生きやすくなった。
自分が伸筋主体へと移行できた割合に比例して、
お客様の身体操作の良し悪しが瞬時に自分の身が反応して察知しやすく変わった。
自分の体が正常化していく度合いが上がれば、
自分の体との差異を具体的に感知することができた。
そして差異を埋める操作が、
施術の課題となっていった。
つまり自身の伸筋主体へと進む度合いが上がっていけば、
自分の身体操作は自在度が増していく。
その歩みに寄り添い進むかのように、
施術の成果が進化していくのは確か。
そのような内的実感があるから、
優れて伸筋主体で動けている者を見て感動すると、
「この人だったら、私よりはるかにいい施術をする」と、
正直、うらやましくて仕方がない気持ちに襲われてしまう。
先日、八極拳の呉連枝老師セミナーを見学させていただいたとき、
『武医同道』と筆で目の前で書いていただいた色紙をいただいた。
武道と医道は同じ道ということの意味合い。
そのときも、呉連枝老師をみて、
「この人だったら、私よりはるかにいい施術をする」と痛感した。
目の前に、ひとつの大きな可能性を見せていただけて感謝!
もちろん一朝一夕で、老師は今に至ったわけではない。
やる気が出てきますよね。
私は伸筋主体へというメカニズムを分析的に思考するのが好きです。
それは自分が思いついた気づきが得られた瞬間、
取り立てて運動パターンを変えるエクササイズをしてもいなのに、
一瞬で動きの質が「自分の内側で変わった!」という実感ができる。
だから面白いのです。
伸筋主体へと変わる道。
それはデッサンをするときのように、
最初はおおまかにラフな図を写しとり、
徐々に詳細な図を描いていき、
やがて彩色をしていく。
幾つもの過程を通り抜けて作品が仕上がる。
武道は、一朝一夕で上達しません。
呉連枝老師や日本伝合気柔術 岡本真師範のようには、
数日の講習会を受けるだけでなれるものではありません。
昨今の風潮では、
『安・近・短』的なやり方をマネるハックできる者が要領がいいと思われる方もいるでしょう。
ですが本物になりたければ、それが最良の方策だとは思えません。
言語化情報は、外側からの見た目に騙されて芯がつかめない程度のことしか把握できません。
つまり共通言語を理解できるまでの上達がなされた者同士ならば、
言語でも内容の濃い知恵をキャッチすることができるのです。
そしてキャッチできる知識や知恵とは、
たいていがすでに自分自身が疑問を持ち解法を求め思い悩んだときにのみ、
師の言葉が「ビビビッ」と自分の根底を揺さぶり気づきの連鎖を生み出してくれるでしょう。
自分の脳に汗をびっしょりかいたほうがいいんです。
そうやって培われた力量が育まれているかどうか。
そのような力量が育まれていないようで
なんら疑問を持ったこともなければ貴重な真理や真実を聞いても、
「ふーん、そんなものなのね」程度で記憶の領域に留まりません。
それは、本人的には惜しくはないでしょうがもったいない話です。
もちろん、くじけそうな高いハードルを設定する必要はないです。
自分の生活に関わるところで、
「屈筋を使っている場面を客観的に観察し認識」できてくれば、
今後の発展が出てきますし期待増です。
私は、まだまだ屈筋主体から抜け出ていないのです。
ですがわずかずつでも、
自分の足で頭で伸筋主体へという夢を追い続けたら、
・ 集中力の向上
・ 直感力
・ 疲労回復力
・ 身体操作技量アップ(施術力の飛躍)
その他にも、
多くのお釣りが来るほどの素敵な福がやってきました。
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