いまだに未消化な認知行動療法とのつきあい方



幸せになるという目的があって人生を送りたいものです。
たとえば、私が知っている方の知人がすごいプラス思考。


自転車に乗っている時。
車に引かれたそうです。
それも弾き飛ばされて、
空中を舞うほどの事故。


自転車はめちゃくちゃ。
木っ端微塵状態。


それは紛れもない『事実』です。


その事故にあった方がプラス思考だった。
それも「超」がつくほど、に。


空中に舞ったときに「一回転して立ったらすごいな」と考えたようです。
話のネタになる!
ラッキー。
(実際に私にまでその話のネタが伝わってきたのですから、すごいです)


そのイメージ通りに無事に着地。
10点満点中、10点でしょう!


引いた車の運転手は血相を変えていたが、
目の前で起きたことが何がなんだかわからなくて。。。


信じられないようなこともあるものです。


打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくないわけです。


プラス思考の御仁が、
体を固めていたら重い頭が真っ先に地面にたたきつけられる。
バイクだったらヘルメットもかぶっているでしょうが、
自転車にヘルメット無しで乗っている状態でしたから。


死を予感させる切迫した状況です。


日頃から超プラス思考だったから、
こんなときも超プラス思考でした。


体を鍛えている人でして、
サーファーでもありバランス力は抜群。
柔らかくしなやかに身を緩め猫のように空中でくるり


もともとその人は人間離れした野生の固まりのような人だそうですが、
猫だって引かれたら生きちゃいられないのに。。。
ラクルな人がいるもんです。


助かったあとも、
車に引かれるなんてなんて不幸だとは一言もなし。
生き残れたことを満足してしあわせを噛みしめる。



私は、思うのです。


もしもネガティブな思考が彼にとっさに思い浮かんでいたら。
決して、今、生きてはいないでしょう。
緊張して身を固めたときは重心が高くなり、頭から落ちるのが普通。
そうなれば受け身をとってもタダじゃすまない。
運が良くても腕の骨折でしょう。
運が悪ければ死んでいます。


それがかすり傷程度でした。



まさにいざというときには、
我が身を救う力は心にあり。


そのような好例でしょう。


ただこの人は、
お仕着せのプラス思考レベルではないようです。


根っからの天真爛漫さが、
そのまま服を着て歩いている。
そんな陽気で楽しい人物だそうです。





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話の枕が長くなりました。 ^-^


私は最近、『認知行動療法』という
行動療法の前に認知という言葉がはいった心理学的療法の本を多読しています。


認知行動療法は、
うつ病パニック障害強迫性障害不眠症、薬物依存症、摂食障害統合失調症などにおいて、
科学的根拠に基づいて有効性が報告されているそうです。


詳細をお知りになりたい方は認知行動療法の本を、ぜひ。



ざっくりいえば、どう説明すればいいのか。。。
他を引用しないで無理に私の言葉で説明すれば、次のような感じか。


ものごとの事実はひとつしかない。
でもその事実に対して、どのような認識をするかは、
各人のとりようで変わってきます。


前節で述べた『「車に引かれた人」が、車に引かれた』という「事実」があります。
それは確固たるものとして、いまさら引かれてませんなどとは言えず変わりません。
ただその事実に対してどう思うか。つまりどう認識するか。
そこは変わってくるのです。


車に引かれて散々だと思うこともできます。
自身の逸話の代表格がやってきて神が降りたとも思えるでしょう。


認識は、どう思うか、どう考えるかということです。
事実は変えられませんが、認識は変えられるのです。


だとしたら事実は変えようがないが、
見方が変われば認識が違ってきます。
ならばトラウマになるような恐怖体験談ではなく、
神が降りた話として思っておいたほうがいいかも。
その2つの認識を、どちらかひとつをあなたが選ぶとしたら、
今後の人生を車恐怖症にならない目的で後者を選びませんか?


というように、
どうなりたいか考え方を整理して、情報量を増やし、選択肢を広げていきます。
それから意図的に自分にとってのお眼鏡にかなうものを選ぶトレーニングをしようというもの。
それが認知行動療法かもしれない。


(すいません。まだ認知行動療法について咀嚼しきれてなくて解説がわかりづらいかもしれません)




今まで認知行動療法について関心がなかったときは、
これほど多量な関連書籍があるなんて思いもしない。


ちょっと変な話ですが。



メンタル・クリニックのお医者様が、
気づけばうつ病にかかってしまうような。。。
『ミイラ取りがミイラになる』ことってありますよね。



私も、一生懸命に認知行動療法を学べば学ぶほど。


かえってつらいかんじになってきました。
学ぶことでうつ病が改善するテキストを読んでいるのですから、
メンタルが強くなりプラス思考の選択ができるようになります。



それが最近の施術による体力消耗や思い悩むところも重なると、心中穏やかではありません。
プラス思考をそのような気持ちで努めてみても、
感情と思考が遊離していく気味の悪い感じです。



それでもしばらく押してプラスに置き換えトレーニングを務めていこうとする。
それが私の体質に合わなかったのでしょうか。




街を歩いていて「黒い人影」が目に飛び込んできて驚くのです。
そんなことが数回繰り返されて首を傾げる。


その黒い人影の正体は、「私の影」です。


「自分の影が自分に迫ってくる感覚」は、
私の日常では感じたことがないのです。


それがいきなり自分の影にドキッとさせられているなんて。。。
それも何度も同じことが起きているから驚かなくてもいいのに。
きまってギョッとして、
身が固まるのを覚える。


どういうことだろうか?


人は、何か大きな気づきをもたらされるときに、
いったん、大きくマイナスに振れてからプラスに転じるものです。
そのようなときは、むちゃくちゃ気分が憂鬱に陥るものですから。
なにかが身の内側で起きているような気配を感じてもおりました。



そのような不安定さを感じたさなかのピーク。



2月5日に休日を活かして図書館によった後に神社仏閣巡りの散歩。


荏原貴船神社→東海寺春雨庵→荏原神社→『品川神社』→高山稲荷神社→高輪神社→『御田八幡』→亀塚古墳→高野山東京別院→袖が崎神社→雉子神社→荏原金毘羅さん・・・


というお正月に恒例の徒歩と神社仏閣内で散策含め5時間の行脚。
小銭がいくらあっても足らないのです。 


書籍のスキャニングで外出が遅かったので、
品川神社に訪れた時点で、午後5時くらい。


辺りは薄暗くなり寒さが増してきます。
明日は仕事だから帰宅しようと思って、
帰途に続く方向へと歩いて行きました。


が、、、
その日の朝、「渡辺綱」という武将が御田八幡を崇敬していたとか、
御田八幡のイメージがボンボン脳裏に浮かびます。
重厚な拝殿を望む木造の風合いに身を寄らせる映像が何カットも鮮明に現れてくる。
自分の中に現れる映像が五感を刺激するほど手触りや香りや冷たさや、、、
普段感じることがないほどの感覚投入されたリアルな強烈なものです。



御田八幡は品川神社の先に位置するのです。


寒くなって風邪を引きそうだからと身の安全を図ろうとしたが、
やはり、品川神社からすぐ帰るというのはあきらめました。


「この感覚の意味するところはよくわからない。 けど、御田八幡にいくことにしよう」
そう思い直しました。


それから歩き出して1時間強かけ御田八幡に到着。そしてお参り。


思いを残して帰らないでよかったと安堵し、
スッキリした気持ちになりました。


ただこれだけじゃ終わらないと感じていた。



御田八幡の拝殿向かって左側に石段がある。
そちらに滑り止めシートを敷いて冷たくないようにし腰掛ける。


30秒〜1分も目を閉じていたことでしょうか。。。


目を開けた瞬間、もう真っ暗になっている時間にもかかわらず、
輝かんばかりの周囲の神々しさを目が捉えている。
ちなみに近所の小山八幡神社ではよく感じる光景。
そこは氏神様で、つながり深く自然にそう感じる。
いきなり視力がアップしたとしても、
このようには見えないでしょう。 ^-^



他の寺社仏閣でも、
そういうこともときたま感じることもあります。
ですが深い瞑想状態の脳波に落としたときです。


御田八幡のときは、意識は顕在でいつものままです。
深い瞑想状態の脳波に落としたわけでもありません。



だから何事が起きたのかがわからない。



ただただ、見事に境内がキラキラと神々しく輝いてます。
ひとり、神社で惚れ惚れしながら境内隅々まで目を配る。
現実的実感が、そこからは感じ取れる。
いつもの見え方が虚像で、今が実像だ。




そのとき、
ふと私が次のように考えたのです。


「私が認知行動療法でいうところの改善すべきネガティブな自動思考の認知は、
私自身の影のようなものだろうか。。。」



そう考えたときに、その思考をさえぎるように、
次のような言葉のインスピレーションが浮かぶ。



「影を観て驚かないでください。
それは影にすぎないのです。


影より先に、美しく輝ける「それ」に気づいてください。


以上




「それ」というのは言葉でどう表現すればいいかわかりませんが、
自動思考自体がプラスでもマイナスでもどちらも影のようなもの。
ただ純粋な天真爛漫さの気を放てば輝きが増していくことだろう。


人力で創ったプラスやマイナスよりも、
純粋な気持ちで天真爛漫さが気分いい。


そちらのほうが優れた姿勢だろう。


実体を捉えてから、影を観ることだ。
その手順が逆になってはいけません。


そのようなことと感覚的な印象を持ちました。



現状の自分の感情を顧みずに無理してプラスに考えようとトレーニングしても、
私にはストレスの火種になるということでした。
筋トレは嫌いですが、プラス思考トレも大嫌い。 
理由がなくて嫌っているわけではなく、
着実に他のやり方のほうが優れている。
そのようなことが自分の常識だから。
どうしてもそこに保守的に固執する。



プラス思考も楽しいと思えればいいが、
違和感が先に来ていると進めませんね。
そういうところは頑なに素直なのです。


天賦の才を見出す自然体にこだわりたければ、
プラス思考が大事だと、私が説明をして気持ちのいいものではない。


すると認知行動療法を利用してコーチングをしようと目論んで多読中の私は、一体どうすればいいのか?


では、どのようにプラス思考という言葉を噛み砕いていけばいいか。
どのようにそこから魂の輝きの光明を見いだせればいいのでしょう。
それまた、現時点の私には果てしなくて、現状はすっきりしてない。
新たな悩ましいところがでてきました。



ですが怪我の功名でしょう。


この瞬間から自動思考に左右されブレていた自分が、
自動思考という制御しづらかった馬車を乗りこなす。
そのような開き直りとも楽観ともつかない心持ちに。


完全に乗りこなせているわけではありませんが、
だいぶ感触は改善されたように実感しています。


私の弱点。
自動思考を少しでも御し難きものから引きずり下ろせれば。
瞑想するきっかけも、そうなるよう願っていてのことです。


プラス思考もマイナス思考もない、
少しだけ俯瞰した見方ができています。


ここに立たなければと思っていたから、ありがたいです。


このような感覚は一過性で過ぎ去るときもあり維持が難しい。
特に自分でわかったつもりになったときが容易に道がそれる。




私は、ときどき行き詰まるとき。
直感に支えられたところがある。


そのおかげで独自に成果を出して目指す施術法を貫けるようなところも多大にあります。


これが奇異なことと感じられるかもしれませんが、
そこを私は過度に押しているわけではありません。


ベースは、実直そのもので施術の本を必死に読む。
施術情報が足りなくてどこから知恵や知識が降ってくるなんて考えてません。
施術本だけじゃはっきり言って、自分が興味ある施術技術をこさえるには知識上は足らないですから。
それもひたすら泣き言をいいながら集めています。
十分な量の情報を揃えて目の前におかないならば、
それこそ大損をしていると思えるからです。
再現性のある施術を作るためには基礎地盤が確固としていないと。
自分の仕事で認識上グレーゾーンがでれば、些細なものをも調べる。
他人を頼れないという潔さがありますから。


だからこれらの書籍や同業の友人からの教えが、97%でしょう。


あとの3%が、直感から得てきたものが施術にはいっています。


基本的に、直感で何かの指針を得たり情報量を増やすというのは、
奇異なことを語れば誤解から遠ざかるお客様もでてくるはずです。


ですが、人それぞれ、心情や生まれた生い立ちや、学んできたことや、通った学校や同じではないのです。
先生ごとにやり方の過程が千差万別あって当然でしょう。
最後にたどり着くべき目的地が、
人に貢献できるものにしたいという願いが純粋であれば。
それが人の道に沿ったものなのでしょう。
それでいいじゃないか。


そうと思います。


ですが曲解されてはかないませんので、
極めて常識的なことしか話したくない。 ^-^;


それに私はよほど困り果てたときではなければ、
キラキラする神社を訪れて大きな気づきがあるというわけではありません。
まったくの楽しみで気分がいいからという理由で
散歩の目的地として神社仏閣巡りを採用させていただいております。