「痛み」は女神の癒やしの力

体の痛みは、つらいから逃げたくなるものです。。。


腰が痛くなった状態がつづくと、
ぎっくり腰かな、ヘルニアかな、、、と不安にもなるし。




でも「痛みがあって、よかった!」という場合はありませんか?


痛みというメッセージは、
体からくる、落第の成績通知ではありません。


痛みは悪魔からの苦痛をあたえられたダメ出しじゃなく、
自らの内側で起こる血流を増すための観察ポイントが痛みという感覚なのです。


意識は、その痛みを捉えて血流を増すべき場所を特定し、
痛みを覚えた場所を積極的にケアする自然治癒の対象として認識いたします。


痛みは、癒やしを達成するための「女神」のようなものなのです。
または「薬師如来」のようなものともいえるのでしょうか。


痛みを感じたときに、
悪魔の仕打ちを想像するのか、
女神の手助けを想像するのか。


それはつらいことを想像すればするほど、その信念はつらさをよく強めることになる。
それは幸いさを想像すればするほど、その信念は救われていくイメージが強まる。


それらの思い方の信念の結果を知ることが、
痛みを深く理解したことにつながることだと思います。


もちろん状況がつらすぎるときには、
痛み止めのような投薬が必要ですし、
痛みから精神を害することもありますから、
脳天気に大丈夫、大丈夫というのもナンセンスです。


ですが痛みに意味があります。
痛みの役割に共感をしてみてください。


そこから肯定的に自身を見つめる目が養われていきます。


発痛物質が、血行を促進させ、体を治癒へ導く.jpg





ですが、この大事な痛みが消えてしまうことがあります。



それは、、、痛覚神経の麻痺です。



実体として痛覚神経が麻痺した状態のほうが、状態悪化は深刻です。
殆どの人はその現状知らないのだと思います。


というのはこの痛覚神経が麻痺した状態を自分の体の内側に備えていない人はいない。
実質いないと思います。


それは十分トレーニングをなさっておられる、
柔軟性抜群のバレエダンサーでさえもあって、
いわんや、、、一般の人おや、です。


ただその痛覚神経が麻痺した状態の量が多いいか少ないかの問題です。


実際の施術をするときに、
痛みについて悪魔への捧げ物のように考えている人もほとんどですし、
あまり痛みが麻痺しているから、という言葉を連発することはしない。


やみくもにそのようなネガティブなことをいうと、
その言葉に傷つけられてがんじがらめになるので。
そこにて足止めになってしまうリスクが出てくる。


私には痛みの理解が浅いため、今のところ思い違いをしているのだと思う。


痛みは女神なんですといわれても、そんな気持ち悪いことを言わないでくださいと何度もいわれたから、
このアイデアを受け入れる時期がこなければ、わかった!と思うことがないのだろうか。


そんなことを思ってみたりもする。


私自身、自分の体が痛いとかつらいとか、いいつつも、文字からは悲痛さがでてくるものの、
そう語る私の顔は明るい気持ちのままです。


ただしその痛覚神経が麻痺した状態が進んだと思える場所を自分の内側に見つけると、
天使に見放された場にはびこられていた驚きに身が凍りつく瞬間を感じるものです。
この潜在していく麻痺したものが増えるならば、
それが体が酸化してさびて朽ちていく鉄製品や、
水が与えられずに枯れだしてしまった植物のよう。


そのような想像が妥当だと思う。



私の施術の目指しているところは、
実はこの潜在する痛みの麻痺をした部分との勝負だと考えています。
お客様が、ここが痛いというところは、少しずつでも自力で動かしてくれている場所ですから。
意外にそこは治る可能性だってある。


それがお客様が、ちっとも気づかない痛くもない場所に、
大きなネガティブ要因があることを知っているのです。
その体が酸化してさびて朽ちるような箇所に目を向けよう。
枯れかけた水や栄養が届かない体の奥の場所に手を伸ばそうよ。。。


そこに目を届かせていないならば、本質的な人間の感性は満ちていかない。



痛覚麻痺中に悪化が加速し、体がさびだす.jpg