「課題の分離」のおもいで


たまたまメールを悩みつつ書く際に
アドラー心理学の言葉が思い浮かんで書かせていただきました。



その言葉には、少しだけ思い出があります。
私がコーチングスクールに通っていたとき、
チューターの方のコーチングを受ける機会を得た。


そのときにお話をしたテーマですが、
今は具体的には思い出せないのです。


おぼろげに思い出せるのは、、、
たしか去年の夏にお客様のお一人でよく知る方が、
がんでの闘病の終焉を迎えたころあいだったと記憶しています。
幾度か病床へ足を運ばせていただきましたが、
そこまでの状態では私は手も足も、何もかも出せませんでした。


そこで真剣に落ち込んでみるのも分不相応だといわれそうです。
ただ、少し楽になる程度でもいいので、
できるだけの手を持ってはいたかった。


そんな感じのお悩み相談になっていた。



コーチングテーマを決める際にチューターのまるさんにいわれたことです。
(まるさん、その後、コーチングの会とか一切顔を出せずにいてごめんなさい!!)
「鈴木さん。あなたは「嫌われる勇気」という本を読んだことがありますか?」
と問われた。


その本は買ってはいたものの施術書の読み込みを優先して積読状態だったことを思い出した。


「不勉強なもので、まだ読んではいません」


というと、
「いま、鈴木さんがおっしゃられていることは、
その本の主要テーマとも言える【課題の分離】を、
あなたができていない状態だと思います。」


【課題の分離】・・・・・?


詳しいことは書籍をお読みいただくとして、
「嫌われる勇気」より一部抜粋させていただきますと、



  まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。
  そして課題の分離をしましょう。
  どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。


  そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。
  これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、
  アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。



私は、末期のがんでやせ細っていくお客様というより友人に対して何かしたいのだが、
それを施術によって自分なりの何かをと考えていた、、、ような気がします。
気持ちがあってもなにひとつ、友人の不安や苦しみに有益なことをすることができないでいる自分。
そこが、、、どうにも、ふがいなくて、今まで何を勉強してきたんだろうと。。。


そのような思いがあったからでしょうか。
私がその友人に見せる顔が暗くくぐもっていて、
よけいに辛気臭い感じでうとまれそうです。


ただそれが同業の友人であったため、私の心境をくんでくれていた。
それがせめてもの救いのようなものです。



チューターさんは、
「鈴木さんが、思い悩む感情はわかるのです。
ですがあなたがその友人の課題を背負うことはできません。
ご友人は自身が得た病という課題に立ち向かう体験を通し、
きっと何かを学ぼうとしておられる。」


私、
「ただ施術者として、なにかちょっとでもしてあげられないかと思うのですが・・・」


といっているときに、はたと、自分の内側で気がついたことがあります。


私は彼が施術での助けが必要かという気持ちを確かめてもいなかったのです。
独りよがりに、ただ自分は施術ができる人間なんだから、
少しは自分ができることをという自我が先走っていた。


友人の課題に断りもなく「私は考えて心配していますよ」と勝手に入り込んで、
かき回してしまうようなことをする、その寸前だったような気がした。



その数日後。
実際に友人にいってみたら、
背中を押してとか足がかゆいからかいてとか、
たわいもないことをおねだりされただけでした。


そこで、今の私を救うなんて無理無理、といわんばかりに。
小間使いぶりだった。



私事ですが多くの友人がいるほうではありませんから、少数精鋭で付き合っています。 


だからなんとかしたかったんですが、なんともならなかったということです。
なんとかなるようなことであれば、最大限努力して結果を求めよう。
ですがなんとも私にかなえることもできないものであれば、
そこは自分の手から手放してしまおう。
自分の課題と他人の課題をごちゃ混ぜにしたときに、
人は自分の責任でできることもできなくなるでしょう。
他人の課題を勝手にこちらが手配してやってしまっては、
相手の力が育つ機会が踏みにじられ自分にはできないという甘えと劣等感を芽生えさせるでしょう。


ついつい他人を色眼鏡でみてしまいいらぬ感情を持ってみたり、
期待や押し付けをしてしまっている。
そのような甘さがあって、情けない。





あとそのときひとつ学べた大切なことは、
相手の存在を心から尊重すること。


たとえ後数日後に死に行く病床にいても。


勇気を持って生きておられる真っ最中の人が
目の前にいるのだという目で、私は人を見ることが大事なんだということです。