体の使い方の学びを修行の一貫でおこなう

『自分』とは、
・『自らを分ける』
・『自らを分かる』
のような意味があるように受け止められる。

『自分探しの旅』のとっかかりに、
カラダを深く理解することも自分にいたる道に通じます。

これは僧の『修行』のようものに思える。
あえていえば極々個人的な『修行』です。

誰と優劣を比較することもない。
比較されて気に病むことはない。
個人的な『修行』なのだと思う。

進歩に一喜一憂することはしない。
落ち込むこともないし、
おごり高ぶることもない。

常に初心者として入門時の気持ちを思い出せる。
自分が成就するまでの道程です。

道のりは遠いですが、
だからこそ取り組み続けられる。
飽きが来ない。

この修行では謙虚さを保ち続けることを教えてくれる。
動き方を少し分かったとしても身につくことはあるのでしょうか?
子供時分に覚えた体の使い方の記憶を消し去れないものです。
できることは常に愚直なまで謙虚になり続けること。
「自分はそれをマスターする」と。
「自分はそれをマスターした」と思えば隙ができます。
その隙は自分の進歩を阻害し後退させます。

私ごとですがワークをするときに、
自分が体の使い方がうまくなってきたと確信すれば
結果がどうなるのかを知っています。
間違いなく体はぼろぼろになる。
このような確信ほど邁進と紙一重のものはない。

そして未熟なほど邁進しやすい。
鼻持ちならない人になります。
そうなるよりも澄んでいたほうがいい。

そういう点を注意し続けることは
ココロの『修行』です。

カラダの運用方法を追求するとき。
人体解剖知識を理解し、
それ以上の仕組みを知る。
それは自然との交わりを深めることにつながる。
自然の中にある物理的な法則を人体に見つける。
神秘的で合理的な事実が少しずつ発見される。

そのような修行を自分探しの始まりにする。
それもよいのでしょう。

修行中、雑念や妄想から身を守り、
バランス感覚を死守すること。
そんな人になってみたいです。

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