『いい加減な』体の使い方について

知り合いの体の使い方を教える先生がいる。
とても高度な体を使いこなすための自身の経験を持ち、
それをレッスンで伝えている。

一見するとその人は自分たちと遠いはるか向こう岸へまで、
進化しているように見える。
自分との距離を感じる。

だがそのような先生でも、
こないだ教えたことと矛盾したことを言う。

それはときとして今日のレッスンで注目してもらいたいところを
クローズアップして気付いてもらうためのときもある。
だが常に今も進化を続けていて、
考えが改められているときもある。

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野口体操の野口三千三先生はいう。

人体の使い方の真理などわかるはずはない。
そのときそのときでいい加減で使えばいい。

と。

もちろん野口先生のいういい加減は、
考えなしにという意味ではない。
よい塩梅、ころあいを見定めるようにという意味。
一見ファジーでいて、
どちらにも転びそうな不安定さがある。

だが先生は固定した考えで押しきせた真理を振りかざすより、
そのときどきの状況に即応し適応し続ける変化を大切にした。
答えを盲目的に信じることの無意味さを野口体操の中で説いている。

人の考えも、
いい加減で変えていけばいい。
人の体の使い方もそうだ。

そのときに『いい加減がよい加減だ』という言葉が出てくるのだろう。

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体の所作振る舞いの体操にも、
これが唯一絶対無二の真理だというのはない。
真理をつかんだと信じて止まったとき、
さび付き始める。

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私が言っていることも、
日々の気付きにより改められることがある。
そのいっていることについての変化に戸惑われることもあるはずだ。

私の場合は、
前言ったことと今考えていることでは、
どちらのほうが数値的にメリットが増えるのか?
と常にその視点で秤にかけている。
その心がけがあるから
自分なりに説明できる勇気が湧く。

体の使い方についての考えは変化し続ける。
真理といえるような答えを知らないと正直にいえること。
自分なりの努力を大切に届けようという気持ちがあること。
それが大切なのかもしれない。