自分のイメージの一体化へ

『信じ込んでいる自分の姿・イメージ』と『本能的個体としての自分』には、
開きがあるものです。


そのずれが大きければ、
自己の現実問題を把握を困難にします。


後者のものは先天的に備えた素養面。
自分の信念によって選べるものではありません。
たとえば身体的な特徴。


構造的にいえば、
人体は地球上の多くの動物たちに引けをとらないほどの脳量を持ちます。
そして器用に道具を使いこなせる手を持っています。
脊椎の自由度も他の動物の比ではない自由度を持ちます。
原始時代より生き抜き続けた遺伝子を継承してきました。
それができるような仕組みが備えられているのです。
etc...
現実的にその構造を理解すれば、
そのすばらしさと可能性に驚嘆させられます。
ただあまりにもありがたいものでありますが、
空気と同じように見て触って感じてととりわけ意識することのないもの。
なくなっては生きていけない。
だがあって当たり前すぎてしまう。
つまりその存在は空気のように透明であり、
それに支えられていることを実感しにくい。


前者の『信じ込んでいる自分の姿・イメージ』は、
後者に比較すれば後天的に持つ自分の創造物といえるでしょう。
自分の姿をプラスにも描くことができますしマイナスにも描けます。
各局面ごとに自分の姿を捉えているかは変わります。
だから常に変化に富む可能性を持ちます。


後天的なこの変化に富む自分の姿の捉え方により、
先天的な自分の実像が見えなくなる・感じ取れなくなることがあります。
たとえば自分の像がプラスに極端に傾けば疲弊しますし、
マイナスに極端に走れば同様にです。


そのときに自分でも地面から足が心もとなく浮き上がり、
遊離している感触や不安感を抱きます。
地に足が着いていないという不安定さを感じるのです。


人間は身体を持つ生物です。


母体より生まれ出てからこのかた、
その中には備え付けられた機能や可能性がプリセットしてある。
そこが第一の地面です。
陰陽でいえば陰の支えるもの(のような気がします)。


この陰を基にして、
陽としての『信じ込んでいる自分の姿・イメージ』が生まれ出てくる。
そのように感じるとき。
「自分を思い描く像」と「本能的な自分の姿」のずれが解消へ向かう。


このときに鏡のような水面のように、
静かに心が落ち着くときをもてるのでしょう。