体の操作は操られ人形のように・・・

胴体は本当に重いものです。
胴体を移動させて支えたり動かす。
そんなダイナミックなムーブメントには、
手や足を動かす必要がある。


『手足を動かすのは、
生まれてずっとしているよ。
いまさらそのようなことを言われても・・・。』


そんな意見が聞こえます。


では視点を換えましょう。


手に孫悟空が持っていた如意棒のような棒を握りしめてください。
するとちょっと慣れるまでコントロールが難しいですよね。
自分と一体にならない。
一体とは感じられない。


巧みにこの棒を操るには修練が必要です。


そういうものですよね。


いきなり10年来剣や刀を持った人間のように使えるわけがない。
戦えば必ず負けてしまいますよね。

      • -


初めて棒を握りしめたときのような気持ちで、
自分の手足を動かすように使う練習をすること。
そのような感触を持ちながら修練するといいようです。


自分の手や足をコントロールをするとき、
棒を初めて握りしめた気持ちで操る事が大切。
手や足を動かすのはコアから伸びる強力な筋肉。
脊椎から伸びた筋です。
手ならば広背筋などや足ならば大腰筋など。
胴体に配置された強力な筋肉を動かすことで、
手や足を操ります。


このコアの強力な筋肉が有効に効いているときは、
自分の手足がまるで誰かが勝手に自分の手足を動かしてくれている感覚。
力むことはありません。
バランスも壊れません。
力強く繊細で軽快です。


このコアの強力な筋肉が働くとき、
自分の頭に動きのイメージを思い描けばいいだけ。
すると反射的に体が動きはじめます。
そのときの体が動く感じがやさしく体が操られている。
そしてその操られているなかに溶け込むことが楽しく、
心地いい。
幸せな気持ちになっていく。


簡単にここまで至ることはないはずです。
でも究極はそのようなものだと思います。




もともと生物は手足のない微生物として生まれました。
それが鞭毛のような体を動かす道具を手に入れました。
あくまでも手足は胴体より生じた道具です。
胴体が手足を使うのです。
手足を使うときに、
棒を道具として使いはじめたのと同じ道具として使う。


手足は自分の体と一体となったものですが、
胴体から伸びた棒と同じ感覚で使えばいい。
胴体と一体であり同時に胴体と別れたもの。
胴体と別れたものですから、
別れた使い方をせねばならないのです。
この別れたものとして使う用法を修練。
そのようなひと工夫をする必要があると思います。


日常生活では、
手足を胴体から別けた感覚で操作する機会はありませんよね。
私はこの手足を胴体から別けた感覚で操作するように心がけ、
力学的な物質の運動と体捌きがフィットすようになりました。


おそらく太極剣や剣道などの道具を巧みに使うよう訓練している人たちは、
剣や竹刀を巧みに使うがごとく手を使うというと話の通りがいいのでは。


胴体はあまり手足ほど大きな関節を挟んだ動きをするものではない。
だから手足に胴体がお世話していただいているように感じますよね。
だが手足は胴体に付属している道具なんです。
胴体がなければ手足が存在しても意味がない。


『僕の胴体が手や足を道具として使う』



なにやら哲学的に聞こえるかもしれません。
でも私はこのような視点を大切にしていますというだけのお話です。


このシンプルな発見は体を操られ人形のようにつかうための、
基礎関門の大切な要素のひとつです。



                              • -

私の文章力では、
言いたいことが伝えきれない。
う〜む説明することは難しい。


理解が深まればもっとすっとした説明ができるのだろう。
いつかはさらっと語ってみれるようになりたいものです。--;