気は入れてはダメ、勝手に流れるものだから・・・。

気の治療学―律動法
こちらの本を読んでいて感じたこと。


気のエネルギーとは自然に流れるもの。
水が高いところから低いところへ自然に流れるようなもの。
自由落下のように労せずしてその現象は起こる。
これぞ自然な流れである。


『気は流れるもの、気とは入れるものではない』という。
気を入れようとすると、
ほぼ確実に邪気となって作用するという。
かなりどきっとする発言ですね。


著者がいうには、
『一段高いところから治してやっている』
という意識でおごりの存在が観えてくる。
それはよくないという。
一生懸命、気の力を使ってお客様を治そうとする気功師
場合によりその行為がお客様のためにならないという。


例えばとある気功師が特殊な気功の力を持ち、
特別な成果をあげているとする。
お客様が期待してお出でいただける。
そのときに先生側に治してやっているという『おごり』がでてくれば、
自分が偉くなったような気分になる。


おごり高ぶる気持ちでは、
相手への尊敬と愛情が欠ける。
そこに相手への愛情という言葉で勘違いされた
『叱りつけや意見の押し付け』が加えられる。
穏やかに相手を傷つけないよう語りかけると、
相手も動いてくれるはずなのだが、
それに気づかない。


相手への些細な気にいらないことに、
ねちねちと説教を加える。
そうされるのが嫌でしょうがない相手。
自尊心が傷つけられる。


気の交流障壁ができてしまえば、
自然に気が流れていくに任せることができない。
そのような雰囲気では『気』も入れようとしないと入らない。

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必死に力みながら気を入れるのでは効果が薄まる。
対して水の流れのような作用を自ら高めることで実現する場合、
身体は緩み自らの内部のバイブレーションをより繊細化します。
おのずと成果は違ってくるのは想像がつきます。


私は気功師ではありません。
ワーク中に気を利用してもいません。


ですが合気道中国武術の推手を練習するとき、
相手との気の交流を考えます。
共に相手をねじ伏せたいのではなく、
両者が聞く耳を立てた状態でのひととき。
別に相手に投げられてもまったくかまいません。


気の交流ができたと感じたときの喜び、充実感。
そこに楽しさがあるのですね。


気は水が高いところから低いところへ自然に流れるようなもの。
自分が高いところへ気を高められれば、
ことさらに気を入れようとしなくていい。
条件さえ整えば自動的に相手にながれていく。


これが自然の摂理に適った無為自然の道でしょう。