記憶と感覚の役割の違い


体を動かしているときに、
その動かし方を記憶して、
次に同様な動きをするときに助ける機能が人間には備わっている。
そのときに感じたことや考えたことを脳のメモリーに記録する。
それは大切な技術やノウハウ獲得の領域内の話です。


感覚的なものも体に記憶のように記録できるようです。


科学的に厳密にそうであるかどうかはわかりませんが、
私の体の中を観察するとそうです。


たとえば仕事をしていて体を酷使して背中が痛いし、
肩や腰部がきつい状態がずっと続く。
それは仕事を終えた今の時間でも続いている。
筋肉を過酷に使えばそうなるものだ、
といわれることもあるでしょうね。
でもそれだけじゃないと思います。
体の中には仕事中の極度の緊張感が筋肉の中に
かたまりとしてもぐりこんでいる。
もし仕事での緊張感の糸がぷつりとキレイさっぱり切れていれば、
これほどまでの感覚は持続しないだろうと思います。
ずっと、ずっと、仕事が終わっても抜けきらない緊張。
その緊張が筋拘縮を維持させてこりに変化していく。


そしてたいていこのような場合には、
こころの内側に『感情の火』が燃えている。
楽しいとかうれしいとかならばいいのだが、
つらかったり苦しかったり目が回りそうだったり痛かったり。。。。。
それから逃げようという気持ちが体の外側の筋達を
鎧化させてしまうことにもなるし、
逃げたいけどそこの場で生真面目に必死にもがきながら
その状態に対応していかなければならないとがんばると
それはそれで、先ほど申したような仕事が終わっても
緊張の糸が潜在意識の中では時空を超えてあり続ける。


過去おきたことも潜在意識での警鐘がなり続ければ、
現在おきていることとして扱われていて、
それに筋肉が反応してしまうのです。



ずっと壊れたレコードが同じフレーズを鳴らし続けるように
そのときの感覚がリフレインされているようなものです。


ずっと、ずっと持ち越していて今もそのときの筋緊張を呼び起こし
今では表面上の記憶では思い出せないものごとに筋拘縮させられている。


それなのにたいていそのリフレインを気づく機会は少ない。

そのときおきた感触や感覚だけが持ち越され続けてしまう。



以前お見えになられたお客様に印象的な方がおられました。
26歳の女性で小学校のときに
学校のクラブちょっとだけ卓球をしていたという。


もう本人は自分が卓球をしていたなんてずっと昔のことで、
やったことは漠然と思い出として記憶しているだけだという。
だがその方の姿勢をチェックして体のゆがみ方のパターンをみると、
きっちりと窮屈な構えで卓球をしたときの筋肉の使われ方が読める。
20年近く前のことなのに、
いまだに残っていたのです。


人の体の中には、
そのほかの過去におきた緊張状態での姿勢や運動の仕方などが
複合的に混ざって収められているようなのです。


するとそのたまねぎの皮のように過去の緊張の履歴が
筋拘縮の筋のコリの層として奥にまでしまわれている。
ワークをしていてそのような複合した層がありそうだ、
って感じるときがあります。



だから・・・
つらいことがおきた一日ならば夜寝るときに


「今日のことは過ぎ去り過去になった。
過去の緊張や感情は記憶にしまいこみ、
それ以上傷つけられないようにしよう。
今日学ぶべきものはもう十分に学んだ。」


のように思ってみるといいかもしれない。
そうすると少しだけ交感神経の行き過ぎた高揚がおさまり、
疲れた体を少しだけ深く癒すことができるように感じます。


記憶は大切に過去のものもしっかりととっておいて明日に備えるもの。
感覚は過去に置き忘れるものではなく『今を見つめる』ためのもの。


過去に取り残された感覚が多いほど、
人の体は硬くなり若いときの柔軟性を失うように思えます。