行住坐臥とは

禅では
坐禅は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という
4つの威儀のなかのひとつである
」という言葉がある。


行住坐臥とは、
歩く(動く)・立つ・座る・寝るの4つの全生活をいう。
つまり坐禅はこの4つの全のうちのひとつ。
4つとも威儀を正す、つまりいつでもきちんとしている、
というのも禅である。


一般的には禅僧が坐禅をするときが修行と思われるかもしれない。
ですが禅とは歩くとき立つとき寝るときの姿においても修行がなされ、
まさに生活全体を覆います。


だから日頃より座していないときも、
歩き、動き、立ち、寝るときにも禅修業がおこなわれている。
そして修行により何か大切なものが得られているのでしょう。


そう考えれば身体を使うと一挙手一投足に心が宿るでしょう。


頭を空っぽにして、正身端坐、只管打坐(しかんたざ)、
正念相続してひたすらに呼吸の繰り返しに徹するという
基本の反復練習から多様な応用が天真絶妙にして自然に生まれることも大事。


日常生活は立ち・動き・歩き・寝るの全体をしている時間が多く、
その立ち居振る舞い全体を通じて修行する意識をもてれば幸です。


「内観の秘法」と「軟酥の法(なんそのほう)」のような禅の瞑想法を
真摯におこないますと身心ともに修行を受け入れやすくなるようです。
ちなみに「内観の秘法」では瞑想中に意識を集中するために、
天井向いて横たわり、
気海丹田(下腹部)、腰、足、足裏の土踏まずに軽く力を入れる。
この【気海丹田→腰→足→足裏の土踏まず】の順に体内意識をめぐらせる。
横たわったときばかりでなく、
立ち上がったときもこの順で体内感覚的にエネルギーがそのように
めぐるよう意識するとと私の感覚では地面に吸い付く感じになる。
この意識をめぐらせていると地面に身体が密着一体化して感じる。


長い月日をかけて研究されてきた禅の修行法は、
有益な身体開発法があるのだろうと実感します。
禅宗は他の宗派と比べ無駄なものを省き質素に徹する気風があります。
ただ外見的にそのように見えるだけなのでしょう。
駒澤大学の教授が禅宗高僧の座禅中の脳波を調べれば、
常人では起きない深い安静・休息状態でリラックスした脳波が検出されます。
常人では寝入るときにしか出ない脳波を意識のあるときに生じさせ、
注意力は一点に固着せず執着を脱し、
受動的で身心内部を観察することができる。


人はときどき正夢というものを見たりするというが、
禅修業をする高僧では寝入らずとも正夢を見ていた。
数日後にだれだれが来てどのようなことをいうかを、
言い当てたなどのことも文献に残っています。
ただそのような予知的な能力を使いすぎると
『魔境に入る』といいたしなめています。
人にそれを自慢しうぬぼれて堕落する。
禅の修業の妨げになるというのですね。
自らを誇示しないバランス感覚がある。
正直、その深遠な境地を見据えた姿に頭が下がります。