ダ・ヴィンチの観察眼

レオナルド・ダ・ヴィンチ

ダ・ヴィンチの観察眼
彼は鳥の羽の動きを長期間観察し続けました。
そしてスローモーションカメラがない500年前に、
鳥の羽の動きを正確なスケッチに残しています。
高速に羽ばたく羽の動きを連続した一コマ一コマとして
見切っていたのでしょう。
常人では見えない世界が、
その目で捉えられていた。


ダ・ヴィンチは手記でつぎのようにいいます。


「理解するための最良の手段は、
自然の無限の作品をリアルに鑑賞すること。


凡庸な人間は注意散漫に眺め、聴くとはなしに聴く。
感じることもなく触れ、味わうことなく食べ、体を意識せず動く。
香りに気づくことなしに呼吸し、考えずに歩いている」
といいます。


自然を感じ取る道具は五感すべて。
それらをフルに総動員させれば非凡になれる。
そういう含みがある言葉のように感じられる。


たとえば『体を意識せず動く』状態から抜け出すとは?
大概は体を動かすとき無意識に動かしている。
よほどの体の使い方に研究熱心な方でない限りは、
体を動かすときどうすれば効率よく動けるか試行錯誤していないはずだ。
意識の持ち方でどのように体を動かしたほうが機能的であるか追求する。
それが体の機能を引き出すあまたのひとかけらとなり、
次第にかけらが集まりだして表現力豊かな動きになる。


無意識に同じパターンの動きを繰り返すなら非凡な動き方はできない。


私もそう思います。


同じパターンの動きをしていると、
つねに同じ部位の筋肉を酷使して同じ部位の筋肉を怠けさせる。
それでは酷使された筋肉は疲労しすぎれば炎症化して硬化する。
怠けている筋肉は筋力を失い萎えてしまいます。
そんな筋肉状態のアンバランスさは、
やがて筋骨格系のゆがみを生み出す。


非凡となるには轍のように固定化された
無意識で動くパターンを改善することだ。
そうすれば体のゆがみを抑え健康になる。
均整のとれた体となり見栄えもよくなる。


そこまでいくには
どのように自由な動きを模索すればいいか戸惑う方も多いでしょう。
ついつい自分の頭で十分考えず体を動かす研究半ばで、
人や先生にヒントや答えを教えてもらいたくなるでしょう。
説明を聞くくらいはいいじゃないか、とお考えになるかもしれません。


でもときとしてそこに落とし穴があるかもしれません。


先生が自分の体を使って苦労して自得した成果は
先生流の経験と知識から生まれた
先生の体に最適化された答えです。


先生の説明を聞けばそれなりに成果が出て
わかったような気になるかもしれません。
でもそれだけでは体ができていなければ
本当の意味でわからないかもしれません。


意識せずに動くパターンを省みていない。
そして体の使い方の癖が自覚できていない。
そこから抜け出せると他の人の動きを素直に受け入れられるようです。
抜け出せないならば無意識に動く癖は改善できずに残ります。
その癖と先生の説明された動きがごっちゃになり似て非なるものになる。


それでは成果が十分得ることはできないでしょう。


自分の体を深く知りよく練ることで自分の体に合う動きを自得すること。
これは獲得物の価値を理解して執念深い修練の継続が必須です。
でもそういうものと考えを受け入れて真摯に取り組めば、
きっといつしか非凡な人の仲間入りができると思います。


ダ・ヴィンチのように観察するセンスを養う。


すると今まで自分では気づかなかった改良された動きを
気づかないうちにしていることでしょう。
偶然に体にしまいこんだ動きのインテリジェント機能が発揮され、
自分が動いておきながら何でこんなことができたのかが不思議だ、
っていってしまうかもしれません。


そうなってから動き方を教えてくれる先生の話を
取捨選択しながら学び取るのもよいのでしょう。
ですがこんな悠長なことを考える人は少ないですよね。