体に不調があったといたします。
たとえば首や肩や背部の不快さ。
もう十年近くずっと痛みがある。
人は苦痛から逃れたい強烈な欲求が生じるものです。
肉体的な苦痛もそうですし精神的な苦痛もそうです。
体が緊張してこわばりだし呼吸がしづらくなるから。
免疫力も低下するだろう。
集中力にも影響するはず。
楽しい時間は一瞬に過ぎ、
苦しい時間は一生に感じる。
苦痛はいつ終わるか?
いつまでも終わらないのではないか?
不安がこみ上げてくる。
ただ「肉体的ダメージがあるから私は幸せではない」と考えるのは問題だ。
そう考えたくなるが堪える必要がある。
幸福感が満ちた条件のひとつの要素に
痛みのない快適な状態と定義があれば、
十年近く欠けていることになる。
メタ化してひっくるめて考えると
肉体的な苦痛があれば人生は闇だ、
と思えるかもしれない。
一面は当たっているが、
多面的には外れている。
もし大病をして苦痛に堪えていたのならば
肉体的苦痛にばかりに目が向くことだろう。
極度な疲労感や苦痛があれば逃げたくなる。
だがそうして不幸をかみ締め
「不幸な自分」や「幸福感が薄い自分」の像が浮かび心が折れる。
肉体の不具合や苦痛はあるが、
気に入った職でがんばっているし
よき家族がいることを思い出せば、
人生を楽しんでいますから大丈夫。
「私は幸福です」
そう心の満たされた答え方があると教えられた。
幸福かどうかを語るには肉体的・精神的な苦痛など、
苦しいマイナス面が先に思い浮かぶ思考回路もある。
反面、周囲に祝福され感謝し心が癒される面を思い浮かべる思考回路もある。
たとえばガンから奇跡的に改善したという人物の本を読むに際して、
たびたびはじめは「幸福感が薄い自分」を感じて疲弊していったが
心境を変える転機が訪れたというエピソードが散見される。
肉体には100%問題ないという状態はありえないと思う。
極端な話、
どんな名医や施術者が施術や治療をしても
筋肉痛の部分や関節のずれた部位を見つけることは容易い。
いつもどこか足りないところや欠けた状態でありつづける。
100%問題ない状態にならねばハッピーではないとこだわるなら、
永遠にハッピーにはなれない。
肉体的苦痛があっても、
それは私のハッピーを傷つけるものではありえません。
そう口にだしていると心が解放されていく。
そして居心地のよい体に変わっている。
冷静に考えれば
幸福かどうかは個人の感じ方の問題にかかわるところが大きい。
幸福観は人それぞれの受け止め方でいいのです。
だからどんな状況でも
不幸と思えばそう思えるし、
幸福と思えばそう思える。
幸福と不幸のどちらであるかはあなたが自由に選べるのかもしれません。