動悸と過呼吸を体験した一日

昨晩、私たち家族がお世話になっているお寺の住職様のお通夜でした。


さまざまな宗教の形式的な儀式よりも、
その教義の内容などを本で読んで納得したりするのが好きな私です。
ですが結局のところそのお寺の住職に対して父が亡くなったときや、
その後のことで大変お世話になりました。


そのためそこでの仏縁をいただいる、
ということを常々感じておりました。


その住職ががんで余命一ヶ月と宣告を受け、
驚き見舞いにいきましたとき。
施術をさせていただきました。


その状況が改善できるような神秘的な力は私にはありません。


私の施術は頭の中で計算で打ち出しています。
頭の中に決定木がでてフローチャートが描かれていく。


自分の手持ちの技の質と量を知り、
足りなければ時間をかけ調べ上げ考え出します。
そこにどれだけ時間と労力を費やすかで決まる。
そうして力をつけてます。


ちゃんとしたフローチャートが描けなければ、
その時点では私の手に負えません。


この度は少しでも一時でも楽になられていただければと、
というささやかな気持ちでありました。


私の最近の施術は受ける側にやさしい傾向へとシフトしてます。


それに頭の中で描いていたフローチャートは、
今の施術をしている瞬間だけのことではなく、
一ヵ月後のことを見越していました。


私の他の知人ががんでそのときの対処のノウハウが
わずかですが活かせる可能性があると思えたのです。


ただ自分の弱さのため住職の施術をさせていただけなくなり、
頭の中で描いたプログラムは序章で潰えてしまいました。。。
本当に強い人間ならば信念で動いていたのではと思うのです。
私の頭の中で描かれた状況と違う状況を誤報で伝えられ動揺。
本当は私が思い描いていた範囲内で、
次に打つ手を用意していたのですが。


そこに進められなかった。


大恩を感じつつ、
かえって邪魔をするだけしかできなかったような自分に腹が立ち、
人は感情が高ぶると動悸がして過呼吸にこうするとなると感じた。


他の人がその技はすごいといわれても謙遜でなくて
まだまだだと見えており自覚してます。


でもこのようなときのため幾ばくかでも力を蓄え備えてきたはず。


まだまだ心身ともに修行が足りない。


知人と定期的にお会いして安否を確かめることは大切なことです。
せめて元気なときにもう少し頻繁にお会いできる機会があればと、
後悔しています。