「愛することは関心を持つということ」

『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』


無関心であること、
苦しむ者に関わりを持たずに傍観者であることが、
愛の対極にあるとマザー・テレサがいう。


愛することとは、
苦しむものに関心を持ち、かかわるとです、
ということとなるのでしょうか。


マザー・テレサの労を惜しまない救済活動などが、
愛することの意味を私たちに教えてくれています。


貧しいものへの救済心を失わないようにと神に祈る
マザー・テレサの言葉も残されています。
短い言葉の中に凝縮されています。


私にはマザー・テレサの深い宗教心に満ちたこころを
ふがいないことですがその深い愛を測り知ることができません。

だから、
『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』を
「無関心とは愛を失った行為だ」と考えてみました。


関心を持たねばならないことがらに無関心でいることはよくないこと。
ということもいえるのだろう。


関心を持つには『センサーを張り巡らせている』ということも大切だ。
センサーの数が少なければ情報が少ない。
それでは関心量も少なくなる。


なにが重要であるか選択するにも長期間を費やし根本を多角的に見極める。、
見極めるには事前の知識や知恵とセンサーで測られた情報が必要だからだ。



コンピュータの業界紙に「新福青果」という
失われつつある農業従事者の技術を
IT力を使い継承させようとしているという紹介があった。


ベテラン生産者の長年培った「カン」や「ノウハウ」。
一人前の生産者になるまで10年かかるといわれるのが農業。


そのような生産者の仕事をセンサーやカメラを使い、
畑における作業内容としてデータベース化。


約10種類のセンサーと取り付け、
温度や湿度、土壌のpH値などのデータを計測。
これらを分析し、
作付け時期の判断や諸問題の解決に役立てるといいます。


今まで生産者が死去し継承がないときは、
そのノウハウが永遠に失われていました。
それを考えればこれらのデータがあれば、
素人でも先人のノウハウが利用できます。


画期的な事業です。


この事業立ち上げのとき、
新福青果ではどのセンサーを使えばよいか、
どのような手法を採用するかという議論ばかりをしていたそうです。


これら議論は欠かすことができない重要なことですが、
完璧な議論をしたとしても、
思惑通りに進むかどうかはやってみなければわからない。


まずはそれを実行に移していくこと。
そう考えて行動に移していったそうです。


このような議論を深めつつ、
試行錯誤をしていくことで
巧みに重点を把握できるようになる。


おそらくのこと、
まずは必要と考えられるセンサーを増やして計測していく。
センサーを設置してデータが取れるようになると、
初めてそのデータからどのような分析ができるか、
センサーから集められた情報の質の軽重がわかる。


この時点でセンサーの数を絞ることができます。


そうなればデータの計算が速くなりますからね。


「センスがいい」状態です。


私たちの体のコントロールについて考えてみても、
私にはこのようなセンサーを配置していく過程が
とても大切なことだと思うのです。


人は五感をフルに活かして生活しているようで、
意外なほど活用していないといわれています。
私たちは体のセンサーの力の多くは使えていない。



ここで
『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』という言葉を思い起こしますと。


使えていない体のセンサー部分には無関心部分ができているのだろうと思う。


それは脳の選択機能からによる。
カクテルパーティーをしていて多くの人の話声が聞こえてくる。
だがあなたは対面している人の声だけを聞き取り意味を解する。
そのような今の自分に必要な関心ごとのみを脳が情報を読み取り
認識できるような仕組みがある。


いつもの自分の生活にとって、
取るに足らない情報だと判断したものは、
それが目の前にあっても脳は意識エネルギーをそそがずに無視する。
そうすることで脳の過労を防ぐことができ、
脳内のブドウ糖節約にもなっている。


だがこの節約思考がときには行き過ぎてしまうことがある。


そのときには無関心という愛のないことを
我が身にしてしまう。
愛を注ぐことで細やかで繊細に、暖かく豊かさを感じ取れる。
愛が注がれなければ大雑把で冷たい。
冷淡な扱いに寂しさとつらさを感じるはずだ。
そこからくるしっぺ返しは大きなダメージが想像できる。


「体の使い方」をお伝えするときには、
私は特別な難しいことをお伝えしたことはありません。


多くの場合は私どもはセンサーをまずは増やしてもらえるように、
「このようなところに注視、注目したらどうでしょうか?」と、
注目してほしい点を告げてイメージしてもらう。


それで十分と考えているからです。


その方にはなさそうなセンサー部分を見つけだして、
新たなセンサーの目を開いていただけばいい。


今までもっていないセンサーならば、
脳は一時的にそのセンサーからの情報に当惑します。
特に他人にそういわれると違和感がでてきます。


そのセンサーを当惑して手放すか手元に留め置くか。
できれば留め置いてほしいのですが、
なかなか一度や二度いわれただけでは身につかない。
それが他人にいわれたという違和感のなせる業です。^-^;


ただ目ばかりに頼らないようなセンサーが増えていくと、
立つときの意識が変わるわけです。
このときのセンサーとは
自分をイメージして上空から見つめるような俯瞰視力だったり、
体の筋肉に感覚を投入し居つきを見つけるセンサーだったり。


長期的にセンサーを増やす努力を積み、
多角的に見つめ、根本の大切なものを観る智恵と目を養う。


このような自分への関心の量が体への愛情に直結するのです。


これこそが至福の幸せ。


私としては、
施術をしたり受けたりすることも大切だと思います。
自分の体に愛情を注ぐには、
関心を持つことだということが下地にあるべきだと思います。