すでに必要な物が目の前にあっても、気づかないこともありますよね。

くだらない話で申し訳ないです。^-^;


私の家には、「ちび」と呼ばれている老ねこがいます。
年齢は誰にもわかりません。
もう目は白内障で白くなっていますし、
何度か死線をさまよっていますが、
つねに復活して生きております。


近所におられた前の飼い主がお亡くなりになられて、
それから数年間、家の前の路地でノラ家業をしてました。
もちろん餌を誰かがあげないといけませんので、
うちの母や近所の方々があげていました。


ノラですので家に入るようなことは警戒してNGでした。
見知らぬ人が近くに来たら一目散に逃げていましたから。


以来、誰彼となく隣のお蕎麦屋さんなど懐いている人に
かわいがられて生きてきたのです。


そうこうしているうちに、
どうにかこうにかうちで飼うようにと、
犬小屋を購入して外に出しておき餌を。


でもぜんぜん犬小屋には入らないし、
私の家にも入ろうとしないんですよ。


ですが体が少しずつ衰えてきたのをみて、
このままでは冬にのたれ死にするのでは?
という状況になり、どうにか家にいつくよう工夫をしまして。
それが実って徐々に、慣れさせるようにしていったわけです。


それがどうでしょう。


今は、自分の家だといわんばかりに、
人をドアを開けなさいとか顎で使う。^-^;


それにこのネコは外でなければトイレをしない。
それでけっこう困っていたんです。


それがつい先日の雪の日。
あまりにも外が寒くて老ネコの身には冷たさが染みたのか、
ついに以前購入して使われずにいた猫トイレ砂を利用してくれた。


人に聞かせれば、くだらないことですが、
母と、本気でよかったよねと喜んでました。


いきなり雪が野外に積もり、
冷たい雪の上を歩かねばならないという苦痛を避けたい気持ちが強くならなければ、
猫用トイレを観ても見向きもしなかったし、
それどころかこれを自分のトイレだという
認識自体がなかったのではと思います。


それが極寒の辛さを避けてトイレをと、
必死になるとこれがトイレになるのではと、
きっと自らが発見したつもりなのでしょう。


人も、おそらく同様なことで、
困難な状況を改善させる策を求めて創意工夫をしたときにだけ、
誰かにすでに目の前に与えられていた「それ」があることに気づくのでしょう。


今回のちびの場合は、それが以前から用意されていた猫用トイレだったのです。


せっぱつまった困っている状況にならなければ、
与えられているのに、それの意味がわからない。


そのようなことって、よくありますよね。


たとえばメンターとなってくれた人が優れた指導をしても、
受け取る側次第です。
それがどんなに役立つものでも、
そのものの真意が見えるところへ上り詰めなければ
無用の長物としか見えないのです。
そうするとプレゼントされたものも、
印象に残らず仕舞いになり忘れ去られるだけ。


それが受け取る側の日頃の力を伸ばす努力があれば、
役立つ宝物になるか変わるものです。



そういえばとある武術の先生が教える教え方に定形のカリキュラムがないので、
それをどうにかしてほしいといったようなことを希望した人がいるといいます。


先生が数十人もの生徒を一斉に教えるときには必要だと思いますが、
実際は5名以下で教えようとしているため
ひとりずつの力量もわかるよう目が届いている。


それでその人のレベルに合わせたことを考慮して教えておられるため、
画一的な教えるときに過不足がでるようなカリキュラムよりも役立つ。


自力を上げる努力をする者にとってみれば成長も早くなるわけですが、
学校の勉強というものの延長線上でばかりみていると違和感を感じて
心にも身にもなにも引っかからずに手のひらからこぼれ落ちるのです。


おそらくとある武術の先生にカリキュラムがなければ多くの人に教えられないのでは、
と申した方はその先生の教えが素晴らしい内容であるから多くの人に教えたいため、
カリキュラムが必要ではと考えたのでしょう。


一定のカリキュラムを作成し固定化させるよりも、
ビビッドに先生が日々考えて進化するナマモノを
どんどん受け取りやすい今の状況がラッキーだと
思う気持ちがちゃんとあるのかどうか。


もしそれがあってカリキュラムがあればいいのにというのと、
それがなくていうのでは違いが大きいのかもしれませんよね。


先生は意外にちょろちょろっていう感じで、
重要なアイデアを話しの端々に挟み込んで
気づくものかどうかを見ていますから。


自発的に追求したい欲求が高い人なら、
定形のカリキュラムてなくてよかった。
そう、思うでしょう。


武道もそのような側面がありますし、
施術を学ぶという場合にも、
それに近い話となることがあります。


どれだけ真剣に目的物に正面切って向き合うか、
そして失敗と成功を繰り返し自力を増せるのか。
そこに邁進しなければメンターや先生がアドバイスをしても
生返事しかかえってこないのでは言葉も渋りたくなります。


自分にとって使えるものがあればという視点で、
日頃から身の回りの品を観察してくれていれば、
たとえば老ネコのちびも猫用トイレを自分のトイレだと、
とっくの昔に気づいてくれていたかもしれません!


今の今まで邪魔なボックスだなと思っていたものが、
これは私のトイレだよと意味づけが変わった瞬間は
興味深いことが脳の中で起きていたのでしょうね。
猫用トイレを取り上げたら今まではノーリアクションだったのが、
これからは切なそうに持ってったらイヤだなーと目が訴えてくる。


意外に、事象は違うが人間にも日頃から考えていたことの答えが目の前にずっとあったんだっていうことがありますよね。
気づきが深まることで価値観が豹変する。


そんなときに、「な〜んだ、答えがすでに目の前にあったんだ」となります。


施術の研究をしていると、
人体図の見方が深まれば、
このような言葉はしょっちゅう出てきます。


そこから何をどう読み取れるか、見いだせるか。