居付きについて考えてみよう


居付きとはどういったものか?


武道をなさっておられる方は、
複数のものと対峙したときに、
目の前の一人だけを見ていて
他を考えずに対決をしていく。


そして一瞬にバッタバッタと投げ飛ばしていけば
多人数取りとなります。


一人を倒したら他への対決へ意識を切り替えること。


一人だけに意識が居付けば
隙ができてしまうでしょう。
そこだけしかみえていない。
それでは息が浅くなります。
筋肉の屈筋群が力みだして、
自分と同じ程度の者が多数いたとすれば、
完全にこてんぱんにやられてしまいます。


意識の焦点をいったん合わせた。


そのときに視点を固定するのも、
代表的な居付きとなるのだろう。


すでに自分のなかのイメージは、
なにをすべきかの術を熟知して
体が勝手にそれを適えられるならば、
そこ一点に視点を集中させてはならない。


視野を広げられるようにしつつ目線を配り、
攻撃する一点から意図的に注視し過ぎないようにする。


そうすると体がダイナミックな重心移動を叶えてくれ、
胴体のウエイトシフトでの強力な発力をしてくれます。
比較的、股関節の稼働は自在となり、背筋が通ります。


巨視的な状況判断ができ、
一点注視の冷静な判断も、
偏りなくできなければならない。


ただ緊張すればするほど、
一点注視しすぎて巨視的な視野ができなくなります。



そんなところが身につけば、
居着かない強さを表現できます。


「おぉ、達人じゃ!!」と、
惚れ惚れする動きになります。



施術をするときも、
不慣れなときには
このような視点の一点注視になりやすい。


また、意外に多年、施術をしていたとしても、
武道などで居着くことへの注意をされないと、
自分の動作が居着いているかどうか気づかず。
そんなときに居付きを消した動作を指導され、
うまく体が使えたとき印象に残るような伸びやかで
よくコントロールされた動きがかなえられるように。


そうなると自分の施術への自己採点が居付きを拭えたあとは高得点になるものです。


それに居付きがある動きをすれば、
カラダの前後左右上下の六方の釣り合いを無視しているため、
中心を見失うものですから。
バランスが悪くなって疲れてしまう。
体の凝りも、このバランスを見失われた空間的な体のパーツの配置が乱れて起きるものだ。


だから私どもは、体の使い方のへんてこな右利き過ぎて中心軸が消えているというのも、
右の大腿部前側に居着いて他が見えていない動きだといえる。
つまり他の部位、ここでは右側の腹部の中奥にある大腰筋が
その存在感を失っていることが見えていない。
本来は大腰筋部分を活かして使えばいいのが、
間違った大腿部前側を使う癖が真っ先にきて、
他の手がなにも見えてこなくなった状態です。


体の使い方を伝えることが難しいというのは、
自分がいつも使っているところに居着くのが
そんなに悪いことじゃないと感じているから。


自分の体のパーツごとに分解し分析でき、
いつも使いの体の癖のままに動くことが
いかに退屈きわまりないことなのか。


そのことに、はっと気づいたら、
体の使い方の指導をしてくれるのは、
自分のなかの体性感覚からの情報だ。
自らの内側の、力みなく安定した気持ちのいい動きかどうか、
それを嗅ぎ分ける感性が、
より高度な動きへ導いて引き上げてくれることとなるだろう。


それで燃費の良い体になる。


正面から自分の体に取り組んで、
進化する技術を得るには先生は、
要らないと私は思っています。


よき師がいたほうが進化は早いのですが、
ゆっくりと着実に地に足をつけて進むと、
オリジナリティあふれる自身にフィットしたすばらしく練られた体になれますよ。





居付きのない大切さについて、
さらに深く理解したいのならば、
剣禅一致を柳生但馬守宗矩に説いた沢庵「不動智神妙録」を読んでみるといいでしょう。


Wikipedia 不動智神妙録も、ご参考に。^-^)


また『不動智神妙録』で検索をしていただければ、
原文を紹介しているページもあります。
ですが、昔の言い回しですから読みづらいので、
図書館などで本をお借りして翻訳してある本を
お読みいただけるとわかりやすいでしょう。


個人的に、こちらの本を読んだとき、
非情に含蓄の含まれたわかりやすい論旨の展開。
沢庵のすごいなと思い知らされたのはこの文章。


私には体得できない未知の領域を見ているので、
何度か繰り返し読んでも、
読むたびに解釈がにゅるにゅると
私の受け取り側の具合で変わってくるようです。
論旨がはっきりしているのに、
なぜ味わいが変わるのだろう。


示唆に富み、奥が深いものですね。


それから個人的に尊敬しています。
品川の東海寺の春雨庵にある沢庵墓に、
2ヶ月に1度は散歩でお墓参りをさせていただくほどです。