心の誇り由来のドヤ顔は、しちゃいけません

先日、雉神社という五反田駅から桜田通をちょっと進んだところの神社でおみくじを引いたとき。
(余談ですが、こちらのおみくじは 「50円」という破格値。 ^-^;)



書かれていたおみくじの第二十九番の「神の教」では、


『ふいて除(の)けましょう、心の誇り、それがさびつきや身の破滅


私を誰よりもえらい、賢い、私一人が正しいのだ。
などと誇る気持ちになったとき、人を見下す、さげすむ。
やがて他人から毛嫌いされ、爪はじきされ、世の中が狭くなる。
身が破滅する。


祓い給え、清め給え、専念この神語を唱えて払いましょう。
心のおごりを、身の誇りを。』



興味深いなと感じたことは、
『心の誇り』『身の誇り』の”誇り”という言葉の同意語が、
ちりとりに入れて始末をするような埃(ほこり)と同じ扱い。


誇り、つまりプライド。


プライドを高く持てと、
いいますよね。


プライドの高い仕事をしろとか。



施術を学び、力を深めるよう研鑽していくとき。
技術力は、センスもよろしくがんばるのならば、
誰でもが十分な成長を遂げられるような環境に、
今の時代はなりました。


そんななかで、
もしまじめに力を養い、
そのものが自信を深め、
『心の誇り』をまといだしたとき。




それでいいのか?




人は、誰もみな、
おごり高ぶる気持ちがあります。


自分の存在を誇りたい。
社会的に認めてほしい。


人間社会に住まう私どもは、
他人の評価を無視できない。


共同体感覚が占める割合が高まるのです。
社会に爪はじきされるなら生きられない。


そんな存在ですから。



自分を誇りたいというのは、
共同体の中に生きる地位を確保したい本能でもあります。


それに誇ってみるときには、
「どうだ!おみそれしたか」とドヤ顔で気持ちいい感じ。
瞬間的に、スカッとして気分がいいのかもしれませんね。


ただそんな人間性の低い者には誰もついていけなくなる。


技術力などは、いずれ革新されてより優れたものがでる。
そうなれば、そんな誇っていたドヤ顔野郎は立場を失う。
見向きもされなくなって忘れ去られるのが落ちですから。




だから、
行き過ぎたおごり高ぶる気持ちからの
心の誇りを口にしてはならないのです。


一切のドヤ顔は捨ててかかりたい。



意外に簡単そうで難しいことなのです。
油断するとついついという場面がある。
実は、これこそが修業といえるほどの、
高い人間性を磨き共同体で共に生きる、
最良の処世術ともなることなのですね。




もし脳裏に良からぬ思いが浮かんだら、
そんなときには「祓い給え、清め給え」と神語を唱えて『心の誇り』を払いましょう。
ちりとりにさささっと掃き取って捨てるような感じで払いましょう。


神様は、謙虚さの美徳を伝える言葉の中に、
ちょっとしたセンスの良さを感じたのは、
私だけではないでしょう。



・・・と、いままでお話を進めてきましたが、
よく考えれば私が引いたおみくじの話でして。
私への啓示なのですね。
それを皆様の前で披露。
お騒がせいたしました。 ^-^;



ですが、ぜひ、おみくじを頂いた際には、
とっとと神社の枝に結んで忘れるのではなく、
二度三度、読み返してみてください。


そうすることで、道をそれずに進んでいけることだってあるはずですから。