目の曇りと執着と。。。

図書館で借りてきた本で、


書籍:空海さんに聞いてみよう。
著者:白川密成


なかなかシンプルだけあって読みやすいし、
私の心にしみるようなアイデアもあります。



その本の中に、


人は、見たいもの、必要なものだけをみていることが多いのです。


カラスの眼は腐ったものだけを見て、
フンコロガシはフンばかりを見て、
人は蘇合の香というお香を好み、
それらに執着して束縛されてしまう。


そのようなことを空海さんはいっておられました。


といったようなものがございました。





現代人は『蘇合の香』なるお香にそれほどまで執着してしまうことはないでしょう。


ただいつのまにか自分がなんらかのものに執着しているということはありますよね。


そういえば、
「部屋の中にある緑色のものを探してください」とお願いして探させ、
どんな緑色のものがあったのかを答えてもらうとき。
セレクティブメモリとかいった、目的のものだけを選別してチェックする脳が働きます。
だから、部屋のなかを見渡しているにもかかわらず、
「それじゃ、赤色のものもいくつかありましたが、あげてみていただけますか?」
というと、さっぱり思い出せないようなことが起きる。


つまり自分が求めているものに集中すると、
実際は目に見えて映っていたはずの赤色が
ほとんど記憶に残っていない。


そういった現象が起きている。


意外に施術をしているときに、
既存の知識が強すぎると人体の虚像を写し見て、
ナマのそのままの状態を把握しているつもりが
似て非なるものをみていることがあります。


まったくの知識なしで見つめればいいとか、
そういった話ではもちろんないのです。


有益となるだろう知識を持っていたとしても
それに執着し過ぎてとらわれないようにする。


そうしないと
『お香の芳しい香り』ばかりに気が惹かれて。
と同じようなことになるのでしょう。


多くのものが目に映ります。


その目に映るもののポイントをとらえることで
一瞬にして要領よく観察が手続きとなり楽になるのですが。
この観察のルーチンが強固にできあがると、
自分が必要としているものだと思わないものを見ようとしなくなります。
見えても見えていないかのごとく、
意識の力で弾きだしてしまいます。


これを、目が曇ったとでも言うのでしょうか。


すると『蘇合の香』ばかりに執着し束縛されることとさして変わりない。
そこにばかり執着して縛られるなんざ、
賢い人間であれば馬鹿げていると思う。


それ以上に大切なモノが目に映るなら。



意外なほど、自分が執着しているものについて、
自分ほどそのことに気づいていない人もいない。
私を含め、そういうところってあるのでは?



自分の流儀を極められたあとには、
それを忘れ捨て去りましょう。
(一道を極める前に他に移るのは、
微妙な結果になるので要注意です)


そうすることで自分が見たいと思っていたものの隣に、
大きな価値あるものがあって驚いてしまうこともある。