私の利用しているCGソフトがテニスのバックハンドをしている
アニメーションデータが提供されているというのが理由で、
それをお題としてみましょう。^-^)
まずは、通常スピード。
1秒間に15コマ。
比較的、さっと動けてます。
「スパーン」というボールが弾き飛ばされる感じ、ありますよね。
すでに優れた動きが身についている方は、
このスピードでも練習になるでしょう。
ですが、さらなる熟達化を目指す人は、
このスピードでは意識が体の細部に眼を配れないことを知っています。
だから、なかには超スローモーションか、ストップモーションアニメ。
そんな動き方をして、時系列的な手足や胴体、重心、目の向きなどを、
修正をしてひとつひとつベストポイントに位置を修正させるのですね。
サーブを打つ前にフォームが崩れてはなんにもならない。
それは、サーブの打つ前の構えフォームも生きているし、
インパクトの際のフォームも生きているし、
打ち終わりの残心の際も生きている。
つまり生きた一連の動きの続いた金太郎飴状態で、
どこを切っても理合に根ざしていなければならぬ。
そうするために、時間を豊かに使います。
これが熟達ポイントです。
そうして動きを練ります。
たとえば超スローモーションで動くとき、
どのような注意をしていくのだろうか?
注意をするとは思考するということで、
「認識」をするだけでは甘いのです。
そこにどれだけの質かを「評価」し、
それをどのように改善するかを「判断」する。
そして改善したら、それを認識して評価して。
また改善して、、、で、さすがにそろそろと切りをつけて次に進みます。
この
「認識」←→「評価」←→「判断」というサイクル。
これが大事なんですね。
このようにしていく習慣が身についていくと、
無意識に繰り返していた体を壊してしまう不具合動作が減少し、
今まで存在しているとは想像してなかった内に秘めた身体の宝箱の扉が開きます。
体の細部を見ていくには、
ゆっくり動いているように見えても、
体の末梢神経系などからの体感からの情報を脳がキャッチして、
それを分析して現時点でのベストと比較するとどうか評価する。
改善するためには、
体の全体をひとまとまりに観ることも大事ですが、
手なら指先やてのひらとか肘とか肩とかいくつもの部分に分け、
一端はそれぞれ分解された状態でのベストワークを見つけ出し、
それを一本の手にしていけるよう手の指と手のひらと・・・と
整合させつつつなげていく力の流れを考慮した調整作業が必要。
同様に脚部も、骨盤や胸郭を含み腹と背を持つ胴体も、頭部も。
そして頭部や骨盤など含む胴体の体幹を先んじて作り終えた後、
そのあとに手足を同期させ、、、。
なんとなく、、、
思いついて書き出していくだけでも、
けっこう、視点はあるものですよね。
それを達者な方々は、
ミクロにクローズアップしてみたり、
マクロに引いて全体像を正確把握し、
目ばかりでなく耳や皮膚感覚や3次元的な空間感知能力やら、
五感をフル活用しただけでは収まらなくなっていく。
自分の感覚を大切にしていくと、
こういった捉え方もあったのか!
とその機能を拡張する概念がパッと花開くときがあります。
重心を変えたり呼吸を変えたり、
力みに気づいたり、意識を変えたり、
本当に上げればキリのないような様々なアプローチをしていくわけです。
それが瞬時に、行われておればスローモーションによるムーブメントで、
それが逐次的に行われればストップモーションアニメのようになります。
遅いと言われている動きの練習中でも、
最重要な部分や観察眼を深めないとならないところは、
更に遅くして改善していくための判断を試行錯誤する。
そういったものだと思います。
自分のなかの、
関節の詰まりがないか、
筋肉の張りすぎや緊張がないか、
体の前後の陰陽を考慮した前面の筋肉に頼り過ぎないか伸筋は生きているか、
呼吸は止まっていないか。
胴体の向きをへそで感じている。
胸が縮まっていないか。
背中は十分な左右の広がりはあるか。
手と足の連動を観る。
などいくらでも大事だろうなという項目を増やしていくのです。
それがあなたの動きの着眼点になり、あなたの動きそのものに。
客観的に自分の状態を見つめる目があれば、
自分の内側に不用意な力みグセや、
傾倒グセや、顎の奥歯の噛みすぎ、
呼吸と動きの連携不足など、
なんどもストップモーションアニメで確認すると、
そのたびに様々な改善点が自覚できる。
太極拳を習っておられる方は、
要諦を唱えるテープを頭で自動再生していただけるでしょう。
それが多くの他競技にも流用し得るような洗練されているし、
なによりなのだと個人的に思います。
そうやって自らが体を動かし、
ベストフォームで力が最大発揮されていくよう工夫していくこと。
それが洗練された動き方に通じていくのでしょう。
良書や映像も含め最良の師がいれば、
どこがつまづきやすいか、
どこまでの高みを魅せてくれるか、
それを教えていただけるのは大変にありがたいもので。
ただし自分の内側に、
師の教えの種を植える土壌を用意することが大切です。
教わる側が、日頃から自分の感性を磨いていく量が、
師から受け取れる量に比例するだけのことだと思う。
ただもし自分には師はいないし必要がないと思うならば。
自の「認識」←→「評価」←→「判断」を師として仰ぎ、
自分の気づきのセンスを大事にするこころがあればいい。
それでも立派なこととなるでしょう。