何を得るのかということは、何を失うのかという選択の上になりたっております。
どの仕事に取り組むか決めて集中したほうが、得られるものが多いものです。
不安だから
A B C などたくさん、
選択肢があります。
どれも魅力的なものですが、
すべてを一緒にはできない。
でも、どれも今の自分が欲しいものに違いない。
そうなると、どれも捨てられない。
Aを選択して決めるということは、
BとCを失う苦痛と不安を味わいます。
思いついた以上はABCどれもが自分。
自分のものですから、大事にしたいし、
どれも魅力的すぎて目移りがしている。
夢想すればBもCもキラキラ光り「絶対、欲しい!!」
頭のなかが行動を選択できず燻り、混乱。
そうやって仕事をためていく性格ならば、
次にも次にもたまりに貯めてしまいます。
すると余計に混乱をきたしていきます。
B・Cを棄てさることがなければ、、、
Aだけに絞るということができません。
取り組んでみれば、
ことのほか集中して数時間で対処でき、
仕事がはかどってしまったというとき。
ならば、
AをおこないBを次に、そしてCをクリアして完成!
一時期でもB・Cを消し去る不安や苦痛を得て決断。
決断するということは、
何かを得るという行為ではありません。
決断するということは、
何かを捨てる行為です。
捨てることで完璧には、
なれなくなるでしょう。
損失には違いありませんが、
なにを失えば最大な損失か、
それを考えていくしかない。
そして手元に残されたものとの縁を感じ、
まずはそちらに全脳を傾けるようにする。
切れ味よく一刀両断。
即断即決せねば流れが早い急流は渡れない。
失敗する結果を恐れず、
リスクを取るしかない。
「捨てる決断の苦痛」の意を悟ったときに、
何に集中して生きていくのかの胎動を感じ、
霧が晴れて目的地の見通しがついてきます。
私は、自室で、神社仏閣等で、
数分間〜数時間、ゆっくりと、
イメージ冥想をしていきます。
たとえば体の各部分を感じ捨てる。
目を閉じて瞼の裏側を捨てるとし、
両手、両足、胴体、、、
それらをそれぞれを丁寧に感じ、
体の各部を捨てて消し去ります。
緊張もコリも張りも、捨てます。
そして空気に溶け込ませて無に。
す〜っと身が落ち着くのですが、
同時に心も穏やかにほどけます。
全身そうして丹念に意識を配る。
そして今している仕事を捨てて、
友達も捨てて、ペットの猫も捨て、
好きな場も捨てて、、、。
自分の性格もひとつずつ捨てます。
あらゆる不安や恐怖も妄想ですし、
そんなものにぼったくられません。
火を着けてボッと燃やしてしまう。
徐々に巨大な概念のようなものも。
そしてしばらくすると、
すっからかんになった爽快感。
なんらぶつかり合う葛藤の芽も失せて、
混乱させることもできない、
なにもないような容器がポッカリとイメージに思い浮かぶまでたどり着きます。
改めてこの容器に捨てることができないものだけを決断して入れていくのです。
ひとまずはモンドセレクション以上に厳選。
大事なものがわかれば、行動の目鼻は付く。 ^-^)
十把一絡げでパッケージされた分析不足の思いは混乱そのものです。
自分が何を持っているか、
手持ちの物が何であるか、
無意識層にヒタ隠れているものを、
こそぎ落として引っ張り出します。
顕在意識に浮かび上がらせていく。
そうすると仏教で言うような四苦八苦も理知で分解しやすくし、
それも決断で、「これは妄想です」「これは妄想じゃないです(電話料金の支払い等)」
のようにわけることができるようになりました。
すると多くの「これは妄想です」という、
メタ化して自分勝手な解釈で自分を苦しめ、
自分を錯覚で過大過小していたりもしているので、
そこも修正をしていきます。
私がこのイメージ冥想をし始めたのは何故か?
強烈きわまりなかった背中の張りを緩和させるためです。
背中の起立筋が仕事の重圧というのもしんどいですし、
それが心身ともに体の過労で疲れすぎさせていたり、
消費税が8%になったのが10%になるといわれて、
不安や恐怖で出るも戻るも、
決めかねる混乱状態のとき。
「身がすくむ思い」がしますが、そう体も反応していく。
そしてこの身のすくむ型こそが、自律神経系を殲滅させ、
運動も中心軸から末端へと力の流れが失われる要因です。
ですが「身がすくむ」という状態で耐えていること自体、
緊急避難をした状態で避難場所にいる快適状態なのです。
「身をすくめてれば、いいんだよ」という、
遣り手ババの甘言で、避難場所に居着いています。
それでは本当に起きてほしくないことが起きるまで、
な〜んにも備えをすることもしていないわけですし。
突然、降って湧いたような災難も、
特に体関係のものについていえば、
気づく前に前兆があったはずです。
起立筋を緊張させて身をすくめるのは、
外界からの攻撃からのよろいを着続けているということ。
だから自分の内側で巻き起こる葛藤を、
『決断するということは、何かを捨てる行為です』
というように動きやすいよう身支度を整えて軽くするため削ぐ。
肝の座った人物なら、腹をくくり行動します。
背中の起立筋が硬化し緊張、短縮する状態も、
昨日の話の続きではありませんが、
自己免疫力を削ぐためものですし。
余談ですが、
たしか合気道の植芝盛平翁の話でしたか塩田剛三師範の話でしたか、、、
多数どりという多人数が一気に飛びかかってくるという場合にも、
誰かが先に自分に到達するからそれを時系列的に捌けばいいんだ、
といっていました。
まさに1/100秒を感じ反応できれば、
そういった世界になるのでしょうか。
人としてABCのタスクを観れば、
各々が個性があり、出足の早さ違い、得意技が感じられます。
人が相手ですから人に和合してみれば、
様子が手に取るように見えてくるもの。
本能的な直感と日頃の修練が実を結ぶことで覚醒したのでしょうね。
誰が来るかの妄想し瞬間、すでにこちらの出足が遅れ致命的。
他のものが急所めがけて、襲い掛かられて終わります。
もともとが小さな体です。
襲われるストレスや恐怖を捌くときに、
精神を制して平らな湖面のように静まらせ続けている。
そういった修練を若いときから指導されておればなと。