言志四録に、
ざっくりいうと、
「世の中ものに言えること。過不足なきものが善、過不足あれば悪」
そのように語る言葉があり、
その『付記』に、それをよりわかりやすくする興味深い事例を紹介していた。
『あるとき、徳川家康が女中たちに対して世の中で一番美味いものは何かと問われたときに、
お梶の局は、
「それは塩であります」と答えましたから、
「それでは一番まずいものは何か」と問われますと、
やはり、
「塩であります」と答えられたということであります。
なるほど、塩は調味料でこれが過不足及ばなければ美味、もし過不及あればこれほど不味なものはないのであります。』
体の中に流れる体液の塩分濃度にあえばうまく感じ、
そぐわなければそれは毒のようにも感じる。
もしも、過不足があれば。
塩気が足らねば、弱々しい。
塩気が多ければ、毒々しい。
正解は、舌で感じられる。
ただし、定形の正解があるわけではありません。
汗をかく肉体労働をするなら塩気を調整し微妙に増すことで、
「これ、うめぇ〜」となりますから。
通常ではこれが適量という塩気では、
体から汗で逃げでた塩分を補えない。
それではまずく感じるものです。
だから塩梅も、一期一会の精神で、
目の前におられる方を察してみる。
自分視点の都合を捨て、
各人の特性を先に観る。
意外にやってみると、
我を捨てる修行は奥深い。
そこに大切な価値を作り出す仕組が、
できあがるのだろうと感じられます。
施術をしていますと、
その人に対して最良の加減かどうか。
そこに焦点を当てておられれば上々。
過不及なければ、
「これは、いい!」と体は喜びます。
料理で言えば、
塩加減が絶妙な潮汁は、美味しいのです。
美味しければ、喜びを感じるように脳がいきいきしてくれます。
海の塩分比率が、
私どもの体内塩分濃度にも影響があります。
それを経験的に細やかな気配りで作り出す。
そのような繊細さが日本料理の基軸となる。
施術でも、
どこを塩梅のよいところと観るかは難しい。
海水塩分濃度のような、基軸がありません。
だからこそ、
お客様による施術のレスポンスをいただけるほど、
ありがたいことはありません。
それが評価が高くとも、酷評であっても。
鋭いツッコミの生きた具体的な評価をいただけたときほど、
「よき師を得たり」と気が引き締まります。
施術に不足があったとお客様が感じたのならば、
そのように伝えていただけたほうがいいのです。
施術の術後体験を非言語行動からも語っていただいている。
そこから察しよく多くを感じていければいいのですが、
やはり言葉で忌憚なく言っていただけたほうがありがたい。
それにお客様自身も、
自身の体にフォーカスを当てることになります。
言葉で状態をつたえようとすることは大事です。
感覚的にアバウトな把握をしているときでは、
自分の大脳もどこをどうすればいいのか的確な指示をだせません。
繊細に数万ものパーツから成り立つ精密機器としての人体のあり方は、
言語化過程で自分の体の内側にいる自然治癒の力を秘めた小人たちに
しっかりとした指示をすることにもなるのだと思います。