ここ最近、5キロ超えのいせごろたを利用した施術のおかげで、
私の体が悲鳴をあげている状況。
施術中に体力を使うのも当然ですが、
神経のすり減らし方は施術成果の上昇とともに格段にディープに。。。
慎重に仮説検証を繰り返して安定感が出てくるまでは、きついですね。
それでブログを書く体力的というより気力上の余裕もなく
施術の研究メモを数時間気力を振り絞って書いた後には、
施術後に気絶する感じで寝入っています。。。
それが続いてますが、これもまたいい経験です。
(そんななかでも、なぜだか書かなければ的な感じを受けて、
ブログ書かせていただきました。文章中でいいたいことのまとまりが悪くて申し訳ないです m__m)
ですが、
進む道へ方向性を直感で選ぶならば、
ここにこだわるしかないんですよね。
それが、私にはわかります。
私の目に映るビジョンからは明瞭に、
そういった映像が流れていますから。
ごくごく、このようにすることには、
納得づくでやれているのです。
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今日、施術をしているとき。
お客様と話をして話題にでた言葉があります。
ブループリント(青写真)。
これは設計図を複写したときの青写真のことですが、
青写真は複製だから原本はちゃんと保管しています。
複写した設計図を普段使いで現場監督さんが見ながらメモを書き込んだりするでしょ。
いつも手元に置いて紙がボロボロになるまで見返すような設計図が青写真です。
建築現場に行くと、現場監督さんや職人さんたちは青写真を手元に置いておく。
建築完成には必須アイテム。
寸や部材や細々した指示や指定を表記された設計図を見ながら、家は建てられていく。
人はこの世に生を受けて生まれ出てくるときに、
人生の青写真を携えて生まれてくるのでしょう。
このたび生まれ出たときもそうだったはずです。
人生の青写真を手にして設計図通りに完成させ
自分がかなえるための課題に取り組んでいます?
そのような意味合いも含めただろう言葉でしょう。
「(ボディワイズの)鈴木さんの、人生の青写真は?」と、
鋭く切り込んでいただきました。
なにげない一言ででた質問かといえば、
前後の文脈からはそうともいいづらい。
私自身、施術をして極めて行くことで、
そこで得た部材を建築材料として使い、
それから建物を建てていくつもりです。
施術技術は建材ですから、
その建材が無様なものなら、
設計図通りに作ってみたとしても、
3びきのこぶたの藁の家程度です。
やはり強固なレンガの家を建てる。
そこにこだわりたいから、
日々、建材集めに邁進するのです。
いいひのきの柱になる建材を集め、
それからようやく家の建築に入る。
建材としての施術技術が集まると、
そちらを使って家を建てる作業へ。
人生の青写真としての設計図には、
なんら悩むことも必要がないほど、
精度のいい指定がしてあるのです。
すべてが抽象的な設定ではなくて、
ゴーサインや待てサインのような時期の時間指定も具体的にその場に立てばわかるものですし、
次のステップへの進行もどこかの誰かが必要に際して取り揃えていてくれているようですから。
時期が来れば、自身が想像していた範囲の事柄が具現化されたままにでてきます。
成功はディテールに宿るものです。
ディテールを読み解き腑に落ちる形で周囲を見回せば、
ジグソーパズルのピースはそろっていることに気づく。
それは、、、無理やりにでも生み出してしまえばいい?
私には、個人的な意見ではそうではないと思えている。
人それぞれの状態設定が違っていて、
今の立ち位置から一歩を踏み出すと。
すでにジグソーパズルのピースを得ているならば完成させればいいし、
未だにピースが用意されていないならばそれを集める時期なだけです。
実際には完成を図るためのピースあつめの時期であっても、
人生の青写真通りであれば、後に自分を振り返ったときに、
ひとつのピースを創りだすための、
小規模ピースを集めていた過程だったと気づくものです。
すべての自身が納得のいくような結果は、
自分が思い描いたもので決まってきます。
それは生まれてきたときに携えてきた青写真通りのものが思い起こされる仕組みになっている。
それに逸脱せずに進められていると思っています。
完成形の結果は、青写真に数字や線で要点が記載されたものを見て作っていればいいのならば、
その通りに作るのがとても楽なんです。
完成に至るまでには、工程上の工夫や想定外の事件や事故が起きることもあるでしょう。
ですがそのような試練もすべてが完成品がかゆいところにまで手が届くための肥やしに。
自分が納得づくで描いた設計図ですから、
間違いなく満足できる成果が得られます。
満足した成果のご褒美とは、
充実感かもしれないし、喜びであろうし、
平安で清浄な落ち着きかもしれませんね。
別に大それたことをせよと青写真に書かれているわけではありません。
それは個人が顔も生まれ出た親も育った環境も違うように、
多様な結果が導き出されれるように初めから出てきている。
ささいなことでも、ちっぽけに思えることで、
誰彼なく自慢できることではないとしてでも、
自身の人生の青写真に素直に『YES』といっていれれば。
ただ自分が描いた人生の青写真を参照し続けるだけでいい。
そう思えてなりません。
ただ。。。
人生の青写真を持って生まれてきたのに、
その青写真をほっぽり出して参照しない。
「そんな青写真なんて、幻想でしかない」と。
そう考えて、設計図を持たずに日々を送る。
そうであれば、
「あなたの、人生の青写真は?」と、鋭く切り込まれたならば。
そのようなモノの必要性は感じられないとか、
他にも取り繕われた言葉を出すしかなくなる。
それでは
私は後悔の念が死の間際に訪れると思います。
それは、
別にライフプランニングをしない人はダメだというのではありません。
私は今の自分自身の在り方が見据えられたときだけ、
青写真が閲覧できるようになっていると感じられる。
自分自身について観察すると、そうであるからです。
忙殺されるほどの滅私状態に陥るときには、
自分と他人を相対的に鑑みて競争している。
絶対的な自分のありようを観察するよりも、
他人ばかりが気になりだし、
競って勝ちを負けを感じて。
人生における混乱期。
苦悩する日々も必要。
ですが瞑想的に今の自分に気づき、
自分を客観的に見つめ俯瞰視する。
そのような自分にできていること、
できようとしていることなどから、
何かをみつめるだけでもなくて。
自身のナマのままの体という心の具現化して表出したものを、
そのまま眺め尽くすこと。
これが、生身の人間には必須修行アイテムだと信じています。
皮膚の内外からにじみ出てくる様子を注視観察することから、
私自身、数限りなく多くのことを学んできました。
肉体には、心や精神につながる叡智が具現化された、
いくつもの特徴をみてとることができるからです。
それは得てして素直な目で見つめる力を持つなら、
直感的に自己の内側の名医から情報が伝えられる。
そのようなものでもあります。
私ども、施術者は。
系統だって場合別でおおよその体のこの部位の状況がこのようであれば、
こんな状態が推測できるという経験則上の知恵を持っているものですが、
それは本人が自身を詳らかに見つめるほどの精度では見計らうことはできません。
ざっくりとした、大雑把な把握をしているにすぎないのです。
「自分は施術者じゃないから、わかるわけないでしょ」では、
自分が持っている内なる名医を活躍させる能力が封印させられている状態でしょう。
医学的な話ではありませんが、
自己の繊細な感覚器官の目を詰まらせずに全開にできているとすれば。
人は、ほとんどの能力にリミッターをかけて10%ほども筋力も感覚力も、判断力も、免疫力さえも、
使い倒してはいないといわれていますし、私もそのような状況だと思えてなりません。
自分だからわかることや自分にしかわからないことのほうが多いのです。
リミッターというブレーキを踏む意味。
ブレーキを弱めてアクセルをもうちょっと踏んでみて、
選択的に爽快感を伴う疾走するような自身を乗りこなせるまで修練する。
自伝車のロードレースをするときには、
登りの体力の養成を行い体の使い方を学び、
下りでは疾走して暴走する恐怖に打ち勝ち路面の小石や亀裂、水たまりにハンドルが取られないように
事前に下調べをしておいたり見通す目の力や動体視力を磨くこと学び。
徐々に優秀なロードレーサーになるようなものと同じことでしょう。
そうすることで体感できる、アクセルとブレーキの使い方の関係性。
より早く安全なドライビングをすることでゴールへたどり着く工夫です。
自分の体の内外を見つめる視野や注視の力がどれほどあるかが、
敏感に自分の人生の青写真通りに道を歩んでいられているかどうかを知り、
大胆に前進する力を得て、機敏に軌道修正を測ることもできるのだと思う。
機械図面や建築図面の複写(青図、blueprint)に多用されたため、
「設計図面」の意味で使用されるようになった青写真。
また、これから転じて、将来の計画などを指して「人生の青写真」というそうです。
私には、各人の「人生の青写真」には、
自身の健康状態に対しての注意書きも書かれているんじゃないかと。
そして避けられないこともあるが、
現状の苦境を乗り越えるヒントが明記されているものもあるのでは。
そう感じられるような疾患や症状もあるように見受けられています。
自分の在り方がわかること。
どのような人生を送るかは
その在り方がベースになり描かれるロードマップのようなものです。
人生の計画は自分の在り方といえる自分を知るための青写真という設計図を見据えた時に、
自ずと見えてくるものだと思います。
その逆の、
人生計画が自分のあり方を見せてくれるものでは、決してないものだろうと信じています。
よいライフプランニングをするアドバイザーがいたとすれば、
自分のあり方を問い続ける人を限定にして役に立つでしょう。
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つい数日前に、施術者をなさっている友人と電話で、
自信とはどこからでてくるのかという言葉のやり取りをしていて、
しばらくそこから話が発展してきた時に。
「目先の事物にとらわれる前に、自分がどうあり続けているかという、
自分のあるべき姿ではなく、
自分のありのままの姿を観ることからはじめよう」と語り合いました。
五感の感覚器官を今までの倍以上のセンサー力をあげていきましょう。
そこからの気付きは無限大に広がるほど多くの事物を伝えてくれます。
感情やこころについて感じ取れるセンサーもそうでしょうね。
最近ではマインドフルネスのようなエクササイズをしてみたりすると、
今、ここにいる自分がわかりだすでしょう。
今の自分自身が把握できていること。
自分の内側の世界の目が、
外側の世界を規定する尺度だと気づくでしょう。
自分の肥沃な内側の世界を知る純粋に見通す知恵が自信を生む源泉です。
今の自分の肉体を通して自分の内側と外側との関わりの扉を磨きをかけること。
今という言葉が連発していますが。。。
自分が踏みしめているタイムライン上の行く先ばかりを気にして、
今の足元が見ようとしていないか、見えていないときも、
目をつぶって疾走する危険は本能的にわかるかそれはしない。
足元の石ころや階段を見ないでは転げてけがをするだろうし、
死に至る崖を歩いているような場合にさえ、
1キロ先のゴールと決めた夢の地を見ているようなことでは。。。
自分の在り方をよく見えてしまえるようなトレーニングをする。
安全に疾走感を持って走れるように目を見開いている状態です。
私には今を知る知恵にセットで生まれてきたときに
描いた人生の青写真を閲覧することがかなうものと感じられますので。