「指導」か、「尽くす」かの違い。


最近、つとに、考えていること。


私は「先生」といわれると違和感を感じ、
居心地の悪い思いをいたしています。
ただ、年齢が進むに連れて、
考えが「私がなにを大事にしたい人なのか」ということに意識の焦点を当てるようになってから。
呼称は気にならなくなってきました。


ただ多くは「鈴木さん」とお客様には呼ばれていて、
先生と呼んでおられるのは 1/100 くらいの割合ですし。 ^-^;




私の場合には、先生という呼称に含まれたものには。
体の状態や使い方についての見立てを伝え指導もする側の人間という期待があるのでしょう。


指導者側として、
すでに多少は先んじて量を学んでいる。
それは、、、そうじゃないと、こちらに足をお運びいただけなくなる、
窮地に立たされることになりますもので、こちらだって必死なんです。 ^-^;;;



ただ「指導」という言葉にも、私は違和感を感じてしまうのです。。。
もちろん一般化された呼称の「指導者」というものにも。。。



指導する側は、
相手の立ち位置よりも高いところから見下ろす気持ちになるときもありそうです。


それは、やはり残念なことですが、
多くのお客様から過去そのような不快な経験をしたという指摘もあります。
おそらく私自身も、その加害者になってしまったこともあると思って反省しています。



上から下を観る目線。
つまり上下関係を感じながら
指導しようとする者を観てしまうこともあるでしょう。


そのような気持ちでいる自覚がなかったとしても、
そうされた相手は、そのように感じられるならば。。。


そこには伝えようとする側が
お伝えの仕方の資質をあげる必要もあるでしょう。




「指導する」という教える過程で、
上から目線で見下して観られた者は、
どのような反応を内的に起こすのでしょうか?


指導者に指導される側の生徒役としては、
その上下関係を受け入れて自分の意志を殺したり滅して話を聴くのか。
または自身のプライドを保つために対抗しはねつけようとするだろう。


私のところのような施術をする場ではなく、
体の使い方を伝えることがメインの場に費用を負担して来ていただけたお客様は、
すでに指導を受ける準備ができているだろうと思うのは勝手な期待の丸投げです。
実情は、そう甘くはない場合もあるようです。


いずれにせよ、
伝えられる側の自尊心が傷つけられてしまっていたとしたら、
ガラガラピシャッっとシャッターが締め切られるでしょう。
貴重な学ぼうとする意志、きっかけが損なわれます。



「スワーミー・ヴィヴェーカナンダのメッセージ 立ち上がれ 目覚めよ 」
という私が日頃愛読している実質40ページ弱の本のなかに書かれた一節を思い出します。
( 少し宗教書的な書き方ですが、意味部分を察していただければさいわいです )


『 君たちの信者仲間を指導しようとしないで、彼らに尽くしなさい。
  無慈悲な指導熱は、幾多の立派な舟を人生の大海に沈めてきたのだ。』



上下関係を作ろうとする本能が、
少なからず人間にはあるようです。


それが自分にあるとすれば、
それを、まずは捨て去ることです。


無論、ここで意図するものは、
おべんちゃらや甘言の言葉を尽くせというものではありません。


やる気が育っていなければ、
そこでは厳しさも必要です。
もっと正面からそれに対し向き合うよう迫るのです。


ただ、ここで間違ってはならないことがあります。


相手の考えを存分に聞く前に、
「自分だったらこうする」と情報不足のまま、
思い付きの考えを正解として押し付けること。


その自分の考えを優先して相手を操作しようとしてみても、
不協和音程度のノイズが聞かれるだけで、
芳しい成果などは期待できないでしょう。


「指導」とは、ときに自身のやり方を他者に押し付ける方法です。
受け取る側が納得できた「自分が考え抜き気づいたアイデア」とはフィットしないものならば、
いくらがんばって指導をしようとしても深く胸に刺さりません。


単純にありものの教科書の内容をつたえるというものでしたら、
そのカリキュラムに則って進行することが最良ですが、
体の使い方についてはそれほど単純なものでもない。


本人が、ほぼほぼ、自覚がない盲点のような部分が、
内側に埋設されていて、
それを他者に掘られるのは無理矢理感があって傷つくものですし、
新たなトラウマにもなりかねないものです。
だったら指導者の示唆を含めたヒントを頼りに自分で探し当てる。
そのようにして見つけたものは、無から何かを生み出す苦しみもなく、
比較的スムースに成長して指導者や師に追いつき追いぬくこともできる。
ずいぶん時間の節約にもなりますよね。



そのようなときに指導する側がおこなう仕事といえば、
どのようなことがあるものでしょうか?


腑に落ちるまで相手の考えや感情を出し尽くさせるような聞き役に回ってみるのもいいでしょう。


自分が考えた末に導き出された答えからならば、
人はそこから非常に多くを学び取ることができます。
十分な行動を促す動機を持つことができるでしょう。


正面から、まず自分自身がその課題に向かい合うこと。
人は、向きあう気構えが固まって肚が括られた瞬間に、
想像以上の成長をとげることだってあるんです。


ただ向き合う気持ちが育たぬうちに
他者から知恵を丸投げされて暗記しても、
自分の価値観を揺るがすほどの深慮や決断にはつながりませんから。


今までの自分のスタイルを変える必要も骨身にしみて感じられない。
切迫感も緊張感もその場限りになってしまうかもしれません。


農業では土づくり、土壌づくりが大事だといい、
耕してたり、水はけを考えたり、種を植える前の準備が大事で、
そこへ労を惜しまないことがいい作物を収穫する秘訣だと思います。


「指導する前」に必要な心の受け入れ体制を整える手助けをする。
そこが人の中に種を植える前の土壌づくりですね。


もしそのようなことが指導する前段階に設置するよう心がければ、
指導を受ける側は、自らの足で立ち上がり、目覚めると思います。


そんな過程を通ったときに、
「たまには他人のやり方を採用してもいいかな」
という気分になれるものなのでしょう。


それが、自分の動き方のくせに固執する傾向から羽化の瞬間です。


そのようなお膳立てに力を尽くすことは、
忍耐力も必要な損な役回りだと感じるでしょうか?


すんなりとうまくいく場合もあるでしょう。
ですが、そういうケースばかりではないことを思い知ることも。



ただ考えてみてください。



後に訪れる変化の偉大さから考慮すれば、
霞んで消え失せる幻のようなものかもしれません。
そこからなんら苦痛を感じる以前に、
喜びに満ちた今後へと向かう者と出会えた充実感。
後々に訪れる意義深い成功を納められた後を十分に知る。


そのような者が立つ地は、尊い



「立ち上がれ 目覚めよ」の本の一節にある、内容の「尽くす」とは、
そこまで付き合い続けようと決心すること。
そこまで「尽くす」ことで始まるのでしょう。



農家が手塩にかけて自分の育てた農作物に愛情をかけた分だけ、
その農作物は実りを大きくしてくれるものです。


その農作物が、水を好むかどうか、水がやり過ぎでは根腐れがおきるなど、
そのものの現状をどれだけ把握して世話をするか。
その甲斐甲斐しく気を配り愛情をかけ尽くす分だけ、
自らが育つ力を発揮しやすくなったときを迎えて育つ農作物のように、
人が指導され成就するのも、さほど変わりがないように思えるのです。



いずれそのような「尽くす」段階で、
体の使い方を伝えるということに向き合いたいですね。


私にとって、
コーチングの音声テープを、数年間、耳に入れ続けて、
去年はスクールに通ったのも、そこにコーチングの考えが生きるからです。





ここまで書いてきて感じたことですが、
私は土を耕す人になりたいんでしょう。
そこに価値観を置いて活動をしていく。



日本人の体の操作が、
幕末以降にいきなり悪くなってきたというマイナスのカルマ。
以前にはなかった病の起きる起因の一端はここにあるでしょう。
それにあまんじて子々孫々までつたえてさらに悪化をたどるか、
そのカルマを打ち壊して、新たに土壌を耕して種を植えるのか。



きっと土を耕す人にならなければ、
理想を語りづらいところもでてくるものなのでしょう。
そんな気がいたしております。