子供の体育プラン






一昨日前に、
私の知り合いの運動関係に詳しい施術家の先生から、
日本の子供たちの運動能力を全体的に底上げしたいという
気持ちをもって活動をしているという気合いと心意気の入った言葉を聞いた。


やはり日本人全体の運動能力智の向上があれば、
それがトップアスリートたちの成績をさらにあげる。
それは選手層を今まで以上に厚くすることができるからだ。


「そちらへと突き進むための準備をしてきたから、
これからは蓄えた力を発揮していく時期です。」


そのような内容を申されていました。


思考は現実化すると言いますから、
そのアイデアが具現化されるとすてきな日本が訪れるだろう。
応援したくなりますよね。



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少し話はそれますが。。。。



昨日の施術の際。


詳しくはかけませんが、
お客様はお二人のお子さまをお持ちのお母様。


お子さまのおひとりが小学校の部活で
活躍をするのが負担になったのか、
脚部を故障したといいます。


その故障箇所は、その痛みを覚えた状態が続けば、
一般的な故障のつづくライン上を進み出します。
みごとに徐々に状態が悪化して行っているとのこと。


体の誤使用で痛みの発生をした際に、
脳は強烈な生き残りに対して手立てを打てという負担を強いることになります。
脳へ強烈な印象的な不快感を与えた場合、
興味深い状態が起きることが心理学的にも知られているようです。


それはそのような不安や恐怖を強く感じた場合には、
脳は時間の経過という概念がないため、
いつまで経ってもそのときの負担を避けようとし続ける回避行動を続けるのです。
その状態は小学生のときに身につけた脳への生き残りに必要と考えた回避行動は、
そのままの状態ですごせばまさに一生ものといえるものとなります。


お客様が、そんな昔のことなんて・・・
とおっしゃられようとも、
脳内に強い印象が残っているときは、
それは昔のことではなく現在のこととして対処し続けるのが脳の操作特徴なんです。
このことを自身で理解していなければ、そんなことはありえないと思いたくなります。


ですが、
そういうものなんですよね。。。


そこにはすでに多年に渡り経過した時間のなかで、
筋膜の癒着が進んでいれば、
もう一般的な筋膜リリースではそこを緩めるにも難しいというケースも散見されます。
まさに骨化を産むほどの柔軟性の奪い方をしてくることがありますので。
そうなるとストレッチで筋肉を伸ばそうとしても、
脳内で昔感じた恐怖を拭おうとする反応は対処できないのです。


まずは「いついつ、こういうことがあって、もしかしたらこのしこりって当時からのものだろう」
ときっちりと気づいて、
そのときの恐怖は止んでいることを確認すること。
もう当時の時間は過ぎていまは安全地帯にいるのだから、
当時のままの心境でいつづけるのは不可解だからやめようと宣言すること。


そうやっていくことで終止符を打たなければと必死になること。
それに乗じて筋膜をリリースをおこない、
同時進行でいままでの動きのパターンよりも自然法に合う身体の姿勢や操作を体験し、
そちらのほうへと移行するような工夫を積み重ねることです。


そのようなプロセスが必要になる場合がでてくるんですよね。




脳は過去の運動器の不快極まりない状態を経験すれば、
そのときの回避行動を後々まで、時間の経過感覚が脳は持たないため維持されている。
施術者が施術をする際に、このような情報をお客様の身体の中に感じ取る場合があります。
得てしてその場合は、生理的な歪みとは違う方向への体の変位が見受けられます。
それによりだいたいの生理的歪みの基本を押さえていれば、
そこから逸脱した箇所をお客様の身体の中に見つければ、
そこから内部のかつて得たトラウマ化したといえるような
現時点ではなんらそこに意味を持たない役立たず以上に
不利益をずっと自身に垂れ流し続けているものの質と量を読み取ります。






そのとっさに行われる回避行動は、ほぼ主導する筋肉が屈筋側です。


屈筋側が張りが常に強くなる常態化が起こり、
屈筋緊張は息を吸いづらくなるという状態でもある。
もちろん息が吸えないならば、吐くことも密やかになるので、
つまり継続的に呼吸器系に制限が加えられることになります。





お母様は、
もうこのぐらいまで脚部が痛くなれば、
これが最悪かとお思いになられたかもしれません。



ですが私には、後々にまで多くの同様のスポーツをして体に負担を強いて、
後の人生でいくつか体調を悪化させる階段を歩んできた人を見るときに。
今の故障の上に別に続くものがさらに用意されているのではと考えるのです。



身体全体のゆがみの定着や呼吸の浅さから
自律神経の状態が思わしくないという状況まで進むのも、その、ひとつです。





私が子供への運動指導ができるかといえば、、、
私は子供への施術も、運動指導も経験値が少なくて。
数少ない子供への臨床経験もさほど思うようにはいかず、
手応えが感じられなかったため、
いまひとつ、突っ込んでいけないところがあります。


子供が・・・というところが幼稚園児の施術で、
ほとほと音を上げたということがあって、
そこから大人の施術ってなんて聞き分けのいいありがたいことなのだろう。
そう実感してしまったのがいけなかったのかもしれません。 ^-^;




ただし、やはり子供の場合は深層筋に根深いしこりが入り込んでいるわけではないことが
ほぼほぼ8割を越えているものですから、変化を起こしやすい時期であるのも確かです。



本当は、学校で学外の身体操作を熟知したものを雇って、
子供たちに身体の使い方が楽しくてためになるノウハウを、
みっちり教えてもらえたとしたら。


推測ですが、このたびお子さまが強く負担を脚部に感じ、
それで好きだった運動会系の部活を辞めざるを得ないという苦渋の決断をしなくてよかったんじゃないか。


そのように思う次第です。


そこで私がお母様に小学校の先生は、もともと現状の仕事量が多すぎるほど多くて多忙を極めているのを知っていますから、
「できれば、学校でお金を出してもらって外部の優秀な体育指導ができるコーチをやっとって欲しいですよね」というと、


『おそらく学校はそこまでお金を出してはくれないでしょう・・・』
なんとなく学校の運営費も予算を削られてしまう昨今の国や市町村の事情も手伝って、
そこまでは手がまわらないだろうと。。。



やはり冒頭で上げたような私の知り合いのような身体操作のプロが
児童を指導していくための機会を得て講習会やワークショップを開いてもらえるということが
現実的なことのようなのだろうか。




ですが児童のためという気持ちはあるものの、
それは講習会の講習中の時間だけではなく、
講習メニューを考えるための調査や準備をたり、
講習会の現場までの移動時間が必要であったり。


もろもろ考えてみれば、結構大変なことで費用もかさむでしょう。




ただ、、、私の知り合いがいうには、学校の体育の時間は子供たちにとって、
身体を器用に動かして活かす楽しみを感じ取る喜びの場であるべきなのに、
いつの間にか運動神経が悪いものにしてみれば、
体育の事業が体を動かす苦痛を与える苦しみのトラウマを植える場になっている、
といっていました。


私も、そのようなケースが多々あると思います。


人一倍、運動神経がう劣った私にも、身につまされる。。。 ^-^



正直に言えば、私はまったく小学校等々の体育の時間が好きではなかったのです。



やはり運動神経も鈍いもので活躍できない体育の授業の場にいき、
『 なんだ、おまえは、こんなこともできないというのか 』


という最低評価を頂いて居残るシーンは、やはり楽しいと言うよりも、
つらいなぁという人生の侘びしさと厳しさを感じざる終えません。
そんな感情が先立っていたことを思い出せます。




ただし、今は、もしかしたらおもしろいと感じるかもしれない。
いや、今だったら目を輝かせていたでしょう。



その理由は、
ひとつは身体操作の合理的なノウハウを学ぶ機会を得られたからです。


体にはそれを活かして使うためのからくりがあって、
それを自分はまったく知らなかったし、
運動神経が悪かったのではなくて、
あまりよくない運動系のサンプルを幼少時にみて育っただけだったんだとわかったから。


今は、合理的な仕事をできる体の仕組みやそのようにして体を操作し活躍する、
達者な人たちの姿を観たり手を触れたりしてきた経験がありますから。


それは運動が苦手で体力がなく非力という
多重債務をひっさげていた私でも、意識が変わりました。
自分の工夫次第で身体操作は、
いかようにでもステップアップすることができることを知った途端。


身体操作の巧みさへの探究心は、
恐怖の対象から興味の対象へ様変わりしたのです。





昨日の施術を受けられたお母様のお子さまは、
部活で一生懸命に試合にでて活躍をしたそうです。
でも、そのようなことが脚部に負担を強いる動きをしているまま頑張りすぎてしまい、
医師から激しく足を動かす動きを制限させられるほどのことであったそうです。



突き放したような言い方をして恐縮ですが、
どんなに一生懸命運動をしてみたものの、
自身の身体状況をあまり把握できていないと同時に、
どのような身体操作が身体能力をあげつつ身体を壊さずに活動できるのかもわからない。
動きの質が最初の設定で、体に負担がかかる状態であったならば、
屈強な壊れづらい体を持って生まれたわけでなければ
質の高い運動技術を活用されたならば起きないだろう
運動機能障害が起きてしまう。



本来、小学校体育の時間は、動きの発見をして身体操作を伸ばすきっかけを得られる時間にし楽しい経験にしていきたい。
そしてその後の、質の高い運動のノウハウを身につけたならば、
その後のその子たちの将来は体をハッピーな状態で居続ける希望を植えることができる貴重なものとなってほしい。


そのような気がいたしました。