身体にかかる負荷等の自己観察ができていれば、痛みや不調は目減りするものです


物を見たとき、
目のピント調節機能が自動で働き、すっと焦点が合うものですが。


同業者の知り合いの方が食事中、
「なんだか視点が合わせられない・・・」といっておられました。。。


日頃は、眼球に対して事さらに気にも留めません。
それが一転、不調になるとつらいものですよね〜。


目のつかれが抜けず、涙を分泌して水分がうまく供給できない。
乾燥して眼球を動かそうとすると突っかかる感じでぎこちない。
自分が見たい物があってもピントがあわなくてぼやけて見えて、
二重や三重のように多重に像が映しだされてしまうこともある。


肩の凝りの張りも、つらくなりイライラするようなつらさです。


そうなれば必死に目薬を指しても、一時しのぎでしかない。






私も、この状態にちょっと前、陥っていました。 ^-^


背部の筋をいきなり使いすぎた結果、
「頭部の凝り」がひどくなってきて、
上記と同様な視覚問題がでていたのです。


基本的な動作ができていなかったんだと痛感し、
その問題が改善できるならば視覚の一時的な問題はなんのその。 


目がしょぼついて焦点が合わないというのはきついですし、
その状況を背負ったときには後頭骨が下降して脳内への血液供給量も低下する。
健康体であればあるほど、この状態になれば四六時中ストレッチをしたくなり、
叫びたくなるほど体の奥がムズムズして嫌な感じなんですよね。
眼の奥も変な感じですし。


ですが、症状というものを数えるだけでは問題の解決にはなりません。


私自身、自身の体の状態をつぶさに観察するよう時間をかけるうちに、


今回の特筆すべき特徴として、
頭皮の張りがきつくなっていたり、
頭の形状自体が変形しているよう。


。。。など状態の異常を見つけた。



「それでは、そこをきっちり対処しようか。。。」
と肚をくくります。



12ある経絡の終着点は、頭となります。
経絡の緊張は必ず頭に必ず現れてきます。


それは頭に鍼を刺す頭鍼療法を調べ実感できるところでした。
はじめは、なぜ頭の治療点に鍼を打つだけで体中の特定部位に改善を促せるものなのか。
不思議さが拭えませんでしたが、
よくよく経絡図の終着点を追っていけば頭にたどり着くんです。



「目がしょぼしょぼになっているから、さぁ、こまったとなった」


そんなときには、
では目にたどり着く経絡というものは、何経絡?


調べればそれは「肝経」という肝臓関連の経絡。
肝臓から目の近所まで肝経の経絡線が伸びているのが経絡図を観てみれば読み取れます。


それじゃ、頭部の肝経に関するところを念入りにアプローチしつつ、
あとは視軸をずらせられるこめかみ部分の異常による影響部や、
後頭部の視覚野がある部分に問題があれば、そこへ改善へつながる対処をしていけばいい。


頭部へのアプローチで目の不都合改善の効果を引き出すには、
闇雲に頭を広域にゴシゴシこすってずり圧をかけるよりも、
上記に上げた肝経の経絡上に生じた経穴へと的確に刺激をいれたほうが改善率が飛躍する。


だから実質的にそれらの取穴できるプロが施した治療と、
一般の方が掛けた圧では成果の開きがでてくるものです。



そのようなアプローチをしていくことで、
私自身の目の不調は目薬をささずとも一定の改善を収めました。


目薬を挿せば一瞬は気持ちいいでしょう。
ですがそこにばかり焦点を当てて視野を狭めていれば、
やがては目の本来の機能が徐々に損なわれるよう削られていくこともあるでしょう。


そうなる前に、
「もう少し、このようになった問題点を読み解いてみよう」と考えていく時間を大切にしましょう。



ちなみにこのたびの私は、
自身の所有する本を処分しようとして、
30冊ほどスキャナーでスキャニング作業をしていました。
ほぼ3日がかりでして、左手で本をスキャナーの読み取り画面に対し押さえつけていて。
それがたたって生じたところもあります。


他には体の背面部分の筋肉を自身でいつも以上に巧みに使えるようトレーニングをしてきました。
それをがんばりすぎたという点も。
腕のいつも使わない部分の筋肉を一気に過剰に使ってしまったという、
オーバーユースによりオーバーヒート状態に陥ったことも原因ですね。


その他にも、思い当たるところはいくつもあります。




実は、この思い当たるところをしっかり見つけられるよう、
自身の状態をつねに自己観察をして脳に記録をとり続ける。
ちょっと焦ってしまうほどつらくても、
だから冷静でいられる。



そのような観察眼は、誰しもが持つべきだと願っております。


そればあれば程度の差はあれ、
強烈な肉体的な苦境を迎えても、
焦りの気持ちを拭うことはできるのです。


自分の観察眼が自分の体の動作を把握しておられれば、
普段とは違ったことをしているとわかっているならば、
以後、そこに改善を施すべき課題を見つけたということになるだけ。
そうすれば、同じ不都合が再来することはなくなることを知っているのです。
いくらだって、今後に向けてのやり方の変更を検討しうる打ち手があります。



それに対して自分を観察する習慣が弱い場合には、
実際はいつもとは違っているような特異な動きや運動、
またストレスを受けていても気付かずにいる。
すると得体のしれない恐怖の状況に落とし込まれたような魔を見た不安が心や感情に走ります。
実際に身体上に起きている肉体へのダメージに上乗せされた
<精神的緊張で炎症の起きた患部が引っ張られて痛みが増す>のです。
今後に向けて、
また同様の苦しさが襲ってくるかもしれない恐怖で身を固めるようなトラウマにもなりかねません。
自分には、このようにならないようにするための操作をする自由が与えられているとは思えません。


打ち手をいくらでも持っているから大丈夫かと思えているのか、
得体のしれない苦しみがタイミングもわからず襲ってくることがあると怯えるのか。
その違いは大いにあるといえるでしょう。



肉体にかかるだけの痛み」+「精神的ストレスから生じる緊張性筋膜炎」という炎症が加わる。
後者の緊張性筋膜炎は、その者が恐怖に怯え、ストレスが増せばいくらでも痛みの加算がされます。
心のなか、感情の起伏でつくられた恐怖には、
上限設定などしづらいものですから、
緊張性筋膜炎の強さは可変するものなのです。


観察力を身に付ければ、緊張性筋膜炎が生じる心境へ足をすべらせることから回避もできます。
タフさを身にまとうこともできるようになるのです。



その好例を紹介させてください。


先日、フェイスブック等でやり取りをさせていただいている方から、
以下の様なメッセージをいただきました。


> 話しは変わりますが、ただ今、腸腰筋をかなり痛めて難儀しております。
> 研究の為に鍛えすぎて痛い痛い。
> ただ、痛めたお陰で腸骨筋と大腰筋の違いとか作用が明瞭になりました。
> 怪我の功名ですね。


このような方は、
実際に痛めた身体部位の痛みは激烈であったとしても、
緊張性筋膜炎で不安に襲われてはいないものでしょう。


冷静に、自身の動きを観察しきれているため、
自らの身体の知恵を増すしあわせを得られた。


そんなところに喜べるようでありたいですね。



人は、観察しきれずに被るダメージはコントロール力を失っているものだから。
観察できているときは、その観察が行き届いていれば自己の作動のリミットを、
必ず身体からはメッセージがきているはずなのです。
その声に耳を傾けましょう。


ただし、上記の腸腰筋を痛めてしまうほど男前な研究活動をしているときには、
限度をつたえる声が聞こえても、
笑顔で無視してその先に進んだらどうなるか、
実験してみて結果を知りたくなるものです。


・・・私も、ときどき同様なことをして苦しむことがあるので、他人事じゃない。



ですが絶対に苦しいのが大好きというわけではありません。
痛いのや苦しいのは、誰よりも怖くて避けて通りたいのです。
ですがその後の明るい未来を切り開きたくなる欲求には勝てません。

だから自身の身体が故障することを想定しつつもそこに突っ込んでいってみて、
イメージ通りに事故ってから新たな創造を得られる場に立てたことをよろこぶ。

確実に痛みや不調の原因は身体操作上の改善を促してくれる質のいい気づきを得られることを知っている。

ただし身体的な知識の基礎があまりわからないうちに大胆な故障をすると、取り返しがつかないので。
そこは十分に計算をしてやっていかねばならないのでしょう。
受益するのは自分ですから自己責任の原則を考慮して、野生の本能をフルに出していくことも必要です。


上記の腸腰筋を故障中の方がどのようなことをなされたかはわかりませんが、
なにを求めてなさっているかの動機について深く共感を覚えます。