人は人により磨かれ、人は人により救われるもの、ですね。

私の個人的な話が含まれていて、申し訳ありません。


昨日、千葉県香取にある私の両親の入る墓参りに行ってまいりました。
ずっと気にかかっていたので、
行くことができて幸いでした。

墓所までは交通機関を降りてから、数時間は歩きます。
昨日は相当な暑さと天気予報で報じられており、
涼しくなるまで数日も待ってもよかったのです。


ですが数日前にお墓に備える花を買ってしまい、
日持ちがするものではなくしおれだしてしまい。。。
昨日、がリミットで行くしかなかった。
というの単純な理由でした。

 

墓参りにいくときには、
交通機関の都合上、香取神宮前に高速バスの停留所があります。
そして最寄り駅とはいいづらいJR「香取駅」から歩きだしても、
途中に香取神宮が位置しております。

それで決まって「香取神宮」にお参りにいきます。

まずは香取神宮に足を運んで参ってから、
お世話になる寺に向かうのが通例です。


そのように足を運ぶ私にとり不思議でありがたいことですが。
時間があるときには香取神宮の隅っこでひとりで瞑想しているか、
ノートを出して思いついたことを書き留めています。
(瞑想といっても、たいていが半分疲れて眠っている感じです)

そんなとき、
お参りして振り返れば綺麗な虹を見てモチベーションがあがりましたし、
私が施術に使っているプルパの映像が見えてきたのもその地での瞑想時。
仕事に活かせるシンプルな発想が、よく思い浮かんでくるのです。
それもそのまま直接的に戦力になるようなものが大半を占めます。

直感やヴィジョンという「非言語」を通して、
何かを感じるものがあります。

 

香取神宮のパワースポットといわれる所以を感じます。

 

お寺の住職が私の自宅との距離を考えると、
お墓参りは大変でしょうとおっしゃっていただけるのですが、
私には修行への行脚の旅のようなものでして。


ただ昨日は35度超えと天気予報の予測。
田んぼはまだ水があり涼しさがありますが、
畑のエリアは暑い炎天下では倒れてしまいそう。
農業をなさっておられる方々のご苦労がしのばれます。。。

ひ弱な私はそれを避けたくて、
朝の始発で電車に乗り込み、
朝9時前に香取神宮に到着しました。
この時間はさすがに炎天下ではありません。


香取神宮の本殿裏手の大きな杉の木陰。
私はその場所が好きで、
静かに佇んでいます。


そのときです。


巨大なカメラレンズを備えた一眼レフを首から下げた方が、
目の前を通っていかれました。

軽く会釈をすると、
ありがたくも気さくに話しかけてきていただけました。

 

聴くと、
鹿島神宮・息栖神社・香取神宮のガイドを
登録なさって活躍している方だそうです。
だから本当に香取神宮のことも、神社のことも詳しい先生で。

本日は早朝に草花や野鳥の写真を香取に撮りに来たそうです。


それから蜂や虫に襲われつつ、立ち話をしました。
様々なお話を私の胸の内に刻んでいただきました。

たとえば、香取神宮の、歴史的背景。
どのような神様が祀られていてという解釈さえも、
一般書に書かれているものとは一味も違うものでした。

 

それにオフレコで私の印象に残ったことを教えていただきました。
90歳を越えるご高齢の神官をなさっておられる方のガイドを頼まれたそうです。


そのときの高齢の神官の方がなさる拝礼に心が奪われたそうです。

礼拝のなさり方について。
一般的な拝礼の手順は以下のような流れです。
拝礼の仕方
① 深いお辞儀(礼)を二回繰り返します。[ 二礼 ]
② 次に両手を胸の高さで合わせ、右手を少し手前に引き、肩幅程度に両手を開いて拍手を二回打ちます。[ 二拍手 ]
③ そのあとに両手をきちんと合わせながら心を込めて祈ります。
④ 両手をおろし、最後にもう一度深いお辞儀(礼)をします。[ 一礼 ]
(※ 詳しくは 東京都神社庁 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/sanpai/


それがご高齢の神官様が参拝させていただきましたとき。
[ 二拍手 ]は、なさらなかったそうです。

理由は以下のようなことでした。
神様が拝殿前で参拝者の手が叩かれた音を聞き出てくるものです。

恐れ多き大神さまを訪ねたとき。
私めのごときことで大神様を呼びつけるようなことはしたくない。
拝殿の前、そして神様がおられる本殿のそばに近づく場に位置を変えて、
90度まで腰をおって丁寧なお礼をなさったそうです。


ちなみに供物となるお賽銭は。
純白の半紙の上に紙幣を起き、
それでお納めいただけるよう祈りをあげてから、
お賽銭箱にいれておられたそうです。


ただその高齢の神官の方も、
多くの方々が訪れている場では
独自の思想と神様へのご配慮からくる気づかった拝礼の仕方はなさらないといいます。


通常の礼拝の仕方をなさります。
神官として祭祀をなさるときも、
通常の神社庁で統一されたこと。
そちらで執り行われるそうです。

一般に広まった秩序を取り入れもしますが、
自身の思想上の基幹部分は大事にしている。


大きな視点から大切にしていきたい価値観にあったものを眺めてみれば、
高齢の神官がなさった大神への拝礼なさりかたは、
私には「間違ったもの」ではなく「心の澄み切った崇高さ」を感じます。

その神官はそのような拝礼の儀をなさるためか、
早朝の他の参拝なさる方々がお越し成られない早朝の時間にガイドを頼まれたそうです。
しっかりそのようなところも配慮しておられるのですね。

 

私も考えさせられました。


その時代ごとに秩序を保つためのルールを印象づけられたものを信じている。
これでよいという正解と信じ込まされたことを、
その背景もさほど考えずに従ってきたものです。

私自身、
ついぞ先程までしっかりと定型の拝礼の仕方を、
なんら疑問も持たずにやっておりました。。。

そしてもう一つ教えていただいたのが、
奥宮は荒神としての神の魂をまつる場ですから、
柏手はやめておいたほうがいいとのこと。
わかりやすく説明していただけて、納得。。。

案外、私自身も好きでそのような本を読んできたが、
生で神様やその神官に接しておられる方の話からは、
深みの違う内容のお話をお伺いできるものですね。

 

歴史的に香取神宮本殿に描かれた象徴や祀られる神や本殿の色彩も、
時代により変えられてきました。
香取神宮の社殿は黒が基調ですが、
昔は朱色であったといいます。
そのことは知ってはいましたが、
黒色への変更がどのようになされたか。
そのときどきの為政者や関係者の考えで状態は変わり続けるものと教えていただきました。


そこでガイドさんから笑をもって、
「事物のすべては【 諸行無常 】です」という言葉がでてきました。


ひとつの言葉の意味内容を具体的に紹介して目の前で歴史的な香取神宮の社殿の装飾の意味や彩りなども示して
現時点で「これが当たり前」と考えられたすべての常識は、消えていくものに過ぎませんといわれてみたときは。。。。

その方は以前は高校の先生をなさられていたとのことで理性的な話の組立で、
明瞭な発音で聴きやすく、語り口も明瞭でした。
話が私の中にも入りやすく、諸行無常も、いつも以上に深く頷けるほどです。

 


個人的に私も思いますが、
「常識のほとんど」は誰かの都合により、
意図的にか非意図的に造られ、
ときには捏造もされるもの。


本質的な意味合いを探らずにいれば、
「常識だからそうするものだ」「常識的なルールに沿えば、普通はこうでしょう」という考えが頭を占めているものです。
そうなると、そこから先を考えなくなるんですよね。。。
考えなくてすむと思えば、脳はそれ以上の追求はしないものです。

「おや?その【常識と呼ばれるもの】はなんか変だぞ、おかしいぞ」と感じはするが、
常識だったらしかたないと飲んでしまうならば、真の見るべき光は見えなくなるはず。


すると自己の価値観に根付く大切にしたいものへとエネルギーや時間を費やせないし、
自身の感性を磨くようなこともできなくなってしまう。

「当たり前」は<諸行無常>の歴史上の視点でみれば、
その時、その場の一時的なことでしかなく、
後の時代に移り変わり塗り替えられれば古臭く感じるか往時をしのぶ過去の当時の事物に過ぎないもの。

自身の目や耳や体や心で感じたもの以外によりつくられた他者があたえた常識に疑問を持ち、
大切にしたい自身のヴィジョンに描かれた価値観の本質を愚直にまで見つめて生きていこう。


そのようなことを感じさせていただきました。

 

 


気が付けば
そのガイドをなさっておられる方から一時間近く、様々なためになる話をお伺いしておりました。

 

そして話の途中に思ったのが、
香取神宮では非言語のヴィジョンが主なメッセージだと感じていたのですが、
ついに香取神宮にて、言語としていただけたのか!

うれしくもありますが、
いつものシンプルな神社境内内で見たり感じたりした非言語上のメッセージと比べれば、
言語という実に複雑で多義的な表現に理解が追いついていけなくて。 

聞き逃してしまわないように必死でした。
お別れしてからすぐにメモをとりました。
大切なことが忘れられ抜けないように。

お話を終えてお礼を述べて立ち去ったときには、
ぐったりしていました。。。。 ^ー^;


香取神宮では、具体的にこれを用いなさい、という手応えあるヴィジョンを受け取ることが多く、
やる気やモチベーションが上がり意気揚々と帰宅するわけですが。
そのような感じとは違っていました。

 

ただ、ひとつだけ思い当たることがあります。

ガイドさんの繰り返していたフレーズですが、
「私はね、ボランティアのガイドをやるようになってから、
ガイドをしているときに、ガイドを受けてくれた人たちから多くのことを教えてもらえたんだ。
私も研究をしたが、ガイドを受けてくれた人たちが教えてくれたことの貴重さやありがたさは大きいんですよ」

という人との関わりで、自身が成長して行けている喜びをかみしめておられるということでした。

 


ダイヤモンドは、ダイヤモンドでなければ研磨することはできません。
同様に、
人は、人により磨かれるものです。

 


ガイドさんは、ガイドされる方に教えられ、
人とのかかわり合いにより磨かれていると。

ガイドされる人に教えてもらうというのは、
ボランティアとはいえ職能を疑われるという見方もありましょう。

ただしガイドするものもガイドされるものも、
両者ともに成長できる貴重な時間の連なりを、
その場で持つ日々の連続であったほうがいい。
そのような視点で人と人が磨き合うことの素晴らしさを捉えれば、
何よりだと思えてなりません。


うれしそうにガイド中に多くの知識をいただきもすると語ってくださった方の姿が、
今も声が聞こえてくるほど印象に残りました。


純粋なすがすがしい気持ちでおられる男性に、
私のこころも磨いていただいたように感じました。


自分がガイドをするんだという緊張から解き放たれて、
ガイドをしている自分も教えていただいて
素晴らしい経験を積んでいるというのです。


私も施術をするんだという緊張を、最近感じすぎていました。
中医学診断に触れると病理上の読みが、
今まで以上に身に備わってくるのです。

筋膜リリースを主にしていますから病理的なことを全面に見るのではなく、
お客様と具体的に接するときに必要なことがあれば徹底して調べる程度で。
病理の全体をみてみようということはありませんでした。
私がよく読んでいたオステオパシー系の本や筋膜リリースのためのマッサージの本などには、
そのような事象のページはあまり割かれておりません。
均整術系の本などでは詳細もあるものの、
東洋医学を系統建てて基礎から学んだことがない私には、
そちらの内容を把握しきれもせず。
ということでした。

それが少しずつでも病理につき見立てられてくると。
それはありがたいことの反面、
お客様として接する際の緊張の度合いが上がってきていたのです。
自分の内側のお客様の状態を把握する際の感覚の違いを感じ取り、
戸惑っていました。


べつだん、筋膜リリース屋さんに、
中医学診断うんぬんといったところまでは望んでも期待してもいない、
そのように考えておられるのが現状なのかもしれません。
ただ私自身の母の病状を正確に見て気づいて手が打てなかった私には、
施術の研究上の後悔がいまだにあるのです。

そのときと同じようなままの自分でいたくはない。

だったら学ぶしかないんですね。

ですが病理を学び始めたときに、
いきなり今までの筋膜リリースとは違った感じ方でお客様を感じ始めたところがあって。
もちろん健康的なお客様の場合は、
まったくもって問題なくいつものままなのですが、
症状に重いものをお持ちのお客様であったときは。。。

まったく違った見方・感じ方がしてきましたし、
その上で未だに自分には施術での有効な手出しの仕方が確定できていないという由々しき状態。

ベン石を応用して使っていくことで。
少しずつ興味深いものを掘っていくこともでき、
何らかの方向性を見つけ出す突破口を得ようとしていますが、
そこは研究段階でまだ定かではありません。

そこで施術を本格的に再開するには遠く感じられ
ずいぶん苦しい気持ちになっていました。

 

そのような気持ちでいたときに、
ガイドをするものはガイドを受けるものから教えていただいて、
多くを学び成長できるものだと語る方の笑顔をみたときに。

 

私の内側のなにか硬直した緊張が解き放たれて、
「お客様から教えていただいて成長し続けてもいいんだ」
という気持ちになっていきました。


現状の中医学診断に対しての理解の未熟さや
それを活かせぬもどかしさからの緊張も強く。
ただしそこから背を向けても問題は解決せず、
ガイドさんの仕事をする姿勢を、学ぶといい。

そのような気持ちにさせて頂けました。
お陰様で、
私の肩の緊張が半分は瞬間で消えました。


中医学の勉強をはじめる前は、
お客様に教えてもらうことが多いと感じていたのが、
いつのまにか休業が長引いて薄れてきたのでしょう。
最近、つとに追い詰められた気持ちに陥っていたと気づかされました。

 

 

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また余談となりますが、、、
昨日、香取神宮で早朝参拝を一瞬で終わらせて、
帰り際にまた香取神宮に寄ろうと考えていました。

そうすれば朝9時ならまだ太陽が高い位置にいかず
気温上昇も35度以降にならずにお墓への行脚へといけると踏んでいたのですが。。。
ガイドさんとのお話を終えて、
気づけば太陽が燦々と照りつけ、
凄まじい状況になりました。

「これから数時間の行脚はしんどそうだ」と思いつつも、
やはり、いかないわけにはいかないお墓参りです。。。


暑さに朦朧となりつつお寺まで歩きました。
予備のシャツに着替えましたが、
着ていたシャツはかなり汗を吸って絞ったら大変な量でした。


それからそのお寺にある夢殿というお堂の日陰で、
体力の復活を待ちました。
伝説的にそのお堂で釈迦が夢にでてきて悟った、、、
という内容を聞いたことがあります。

その話にあやかって、そのお寺の参拝しているとき、
私が一人きりというときは、そちらの縁側で坐禅をしている。

2時間弱、時間が過ぎて、そろそろ出立しなければ
帰りの高速バスに乗れないぞとなって腰をあげると。


寺に一台、タクシーを乗り付けて入って来た人がいました。
それをみて、目を疑ったのですが、
私の姉が墓参りにきたんですね。
姉がその日に墓参りにくるとは知りませんでしたから驚きました。


それでちゃっかり香取神宮へあと二キロというところまで、
タクシーで送ってもらい、返り路をショートカットできまして。

脱水症状がやばいなと、自身の脈をみて察知していたのですが、
香取神宮までのたった2キロの30分弱の距離の歩きでも、きつく感じました。
2時間弱を炎天下、道を戻っていたとすれば厳しかったでしょう。

危険な崖を、崖っぷちで回避できました。

 

まさに「人は、人により救われるもの」ですね、、、、。

 

<感謝です>