思考や感情由来でカラダをゆがませてしまった沼にはまると、抜けられないって、なぜ?

人間関係上の問題から、心身に異常をきたす方も少なくありません。
お客様からのお話で、職場、身内との人間関係の悩みなど、。。

たとえば、
「『非難すること』にたくさんのエネルギーを使っている組織や人」の存在があります。

そういう組織や人は、だれも責任を取らない有害な文化を作り出します。
物事が計画通りに進まないのは他の誰かの責任、誰かの失敗ということになります。




その行為でどのような結果を作り出したいでしょうか?





たとえが悪いかもしれませんが、
政治の世界でいうならば、与党を非難ばかりしている野党のようです。
良策や良案をもって自らの進む道を指し示そうとしてくれていません。
こうなったのはすべてが与党の責任だしそちら様の失敗だという。

相手以上に考えぬいた形跡が見える代案は提示することをしない。
それで野党の伸びしろや実力を、どうやって知ればいい?
非難する役割と割り切ってそこにばかりエネルギーを消費して、
自らが責任を感じ建設的なことへエネルギーを割いていない。


そのようなシーンを国会での討論などで拝見するようなとき、
「与党も与党だ、だが野党も相変わらずだ」と感じるのです。


これは人に対しても同様です。
人を非難することばかりにエネルギーを使いすぎているものは、
「こうなったのはあんたのせいだといい続ける」ものです。。。

100歩譲って、そこに相手の失敗があったかもしれません。
だがいつまでも過去のことにしがみついて、
相手が至らないと非難することにたいそうなエネルギーを費やすならば。
そこでなにが起きているかといえば、
自分を建設的な力で満たし変化させ、
向上発展させる責務を放棄しているのでしょう。

自分では責任を取らない、自分には責任などない。
すべてはあなたのせいだと責め攻撃したり、恨んだり。


非難されても、政治家は肝が据わりさほど動じません。
野党からの非難が集中される国会答弁は、慣れている。
うまいことその場を切り抜ければいいだけのことだと。

もし野党が冷静で与党を上回る深淵熟慮した建設的な大案をだされるようなら、
そこは慣れていない与党が、真剣に自身の立場に危機感を感じることでしょう。






ですが人と人との人間関係上の問題で、
ただただ非難することに多大なエネルギーを割き続ける人がいたときは大変です。

対象が「人がいい」といわれるような人だとすれば、
一方的な暴力的ふるまいだということに気づかず、負のエネルギーに巻き込まれていく。

たいてい非難するものの主張は偏狭なもので、
なんでそんな一方的見解で非難し続け、
自己正当性を押し出せるかが信じられないものです。
自身のやっていることを棚上げにできるものじゃないと、
この非難しっぱなしという荒業はなしえないので。

そんな相手の非難押しにのまれ、
びっくりしたり動揺したそぶりをみせたらエンドレスで責めていいという許可をもらえたと勘違いして、
どえらい災難が身に降りかかってくるようになる。



上司のパワハラ行為の裏に、こんな図式があれば、
きびしいことになりましょう。。。
または親から、子供から、パートナーからなどと三親等以内の身内からも。。。
きびしいことになりましょう。。。



そのような人間関係の直下にいるときは、
無意識に相手からの攻撃から身を守ろうとする反応が肉体に生じます。
引っ掻き回される苦痛のしんどさから逃れようとするために、
腰、肩、首などが自己防衛パターンで固めて感受性を麻痺させようと歪みだします。
それは何例も似た状況で苦しんでいる多くのお客様を観させていただけば、
それぞれのお客様に共通しているゆがみパターンが現れて見えるものです。

この腰と首の縮み過ぎたままといった椎間板を削るような変位パターンを私が見るとき。
「人間関係で重々しいものを背負っている人なのだろうか?」と直感します。
後で親しくなって話を聞けば、やはりそうだったということが大半なのです。



非難に多大なエネルギーを割く友人、職場、親類縁者にいるときには、
施術だけで持続できる一定以上のゆがみの改善成果が出しづらい。
施術直後、一時的には改善してみえるが、
しばらくすると施術直前のときのゆがみへと自らが戻ろうとしだします。

カラダをゆがめて、自分の感情面での感度を鈍らせる麻痺をわざと起こさせている。
人間関係上の苦痛を感じるときの脳が感じる打撃個所は、
物理的にバットで頭や背中を殴られたのと同じ場所が反応している。
だから第二第三の非難にサンドバッグ状態とされる苦痛から避難逃避して安定して生きるために思い当たった方策として、
自らの身をゆがめて呼吸や血行等の代謝を落として、身を固めて痛みに耐えられる姿勢のまま暮らし始めます。

そうした場当たり的で自分の身をおとしめるような対策を、
人はとっさのときにやってしまいます。
そういった嵐が早々に過ぎ去ればいいが、
継続して巻き込まれれば自分の身をゆがめて身体感覚を劣化させることで、感情面の感覚ボリュームを下げる手が定着します。
100%の感受性であれば、100%の苦痛を感じますが、
50%に感受性を落とせば、50%の苦痛で済ませられます。
後者の耐えられる。。

だから自らカラダのゆがみを作り出して、
感受性を自己調整するというやり方に手を染めるときがでてきます。

そこにいったん逃げ込むと、独力ではなかなか復活できません。

なぜかというと、
襲い掛かる怖ろしい苦痛を低減させる技を獲得して身を守れるようにしたんですから、
それは自分にとってはあったほうが50%の苦痛が減った幸せを感じられるものです。
そうしたゆがみをなくせば、再度、100%のボリュームで苦痛が襲い掛かります。
そのことを無意識的に知っているため、ゆがみあるカラダが安息の安全地帯と感じてしまっている。
だから外的な圧をかけてゆがみをリセットしたとされても、
それはドンパチする戦場に襲い来る矢を避ける盾を奪われたに等しいことと感じるでしょう。

厄介ですが、
必死になって盾を探し、
ときには以前よりも強力な盾じゃないと不安に感じ始める引き金にさえなるケースもでてしまう。

すでにお客様が、パワハラや身内関係のトラブルを自覚的に把握できていればいいのですが、
そこの気づきが至っていないときには、施術での制御は屈筋群を緩めすぎずに伸筋群の再生を主にするというやり方で、
更なる感受性を落とさせることがないように気づかわなければなりません。






また、言いにくいことですが、
未成熟で自らが非難にばかりエネルギーを使い続ける傾向がある人にも、
特徴的なゆがみ方が観られるのです。

自分に建設的な改善をなすための力を発揮する方策があることに気づかぬまま、
相手の行為や行動にばかり責任を持って対処しろという気持ちでいるならば。
こちらが思ったように変わってくれない相手へのいら立ちや虚無感ばかりを感じることもあるかもしれません。
嫌がる他者を自分の思ったように操れると思うのが愚かなこと。
自分の常識は相手の非常識でしょうし、立場が変われば見方や感じ方が変わることに気づいていない。
それでは話がかみ合わないでしょう。

相手とのやりとりに歯がゆさや失望が生まれます。
自分の思い通りに動いてくれない苛立ちや失望があります。
そしていくら言っても自分に相手は変えられない事実が突きつけられ、
そんな無力な自分を魅力的な人と評価できないものです。
そういった焦りが、さらに他者を非難する行為がエスカレートへ。
建設的な思考が及ばない脳の使い方が、火に油を注ぐ感じに空回りし続けるでしょう。

結局は、みずからの建設的な想像力を発揮せずに、
相手に対しての依存心や依頼心が跳ね上がるばかり。

知的な行動を楽しみや快感と感じる人間の性質からは、
遠のくばかりでしょう。


そのような考え方で沼にはまると、
姿勢分析をするときの観察として。
地に足のついた立ち方ができず、ある人は骨盤が捻じれつつのめってしまう。
「胸椎がひねくれる」ような<特徴的なゆがみ>を内包していきます。
胸椎は、ゆがみが起きにくい構造上の特徴がある部位ですが、ここが施術家でなければわからないと思いますが、
心臓をざわつかせて落ち着きを減らすような負担を四六時中作り出していく自閉パターンを持ってひねくれんです。。。


24時間寝ても覚めてもやむことのない、他者非難に気を持っていかれる感情エネルギーのロスは、
実際に自身の身体エネルギーの枯渇へと舵を取ります。
これも、、見方がわかれば、判別できる可能性があります。




これらは。

人間が「思考」により、自分のカラダの変位を創造している一例といえるでしょう。
このときは「思考習慣」を変えられたときにのみ、カラダは素のままに戻るのです。
そうした胸郭パターンを書き換える「鍵」を、自分だけが握っていたわかり、
考え方に建設的な変化が生みだすようアクティブなコーチング思考などの習慣づけを徹底して行うと。

カラダの芯も書き直されていくように感じました。

これは私自身の感じたところでもあります。





最後に余談ですが。
Tverでテレビドラマの『ひねくれ女のボッチ飯』をたのしんでみてたんですが、
こんな感じのひねくれ方はかわいいんですけどね~。
ドラマは最終話を迎え、しあわせ感があるエンディングで。
ひねくれ度が治って終わったような感じです。 ^-^