スタビリティ(安定性)とモビリティ(可動性)



身体操作の要諦は?

そう問われれば、
「スタビリティ(安定性)とモビリティ(可動性)が同時にその動作に含まれていること」だと答えるでしょう。

スタビリティ、安定性とは「重力で得られるバランスがとれた状態」のことをいいます。
モビリティ、可動性とは「重力に逆らってアンバランス状態を作り出した状態」です。

バランスが取れた状態とは、支持力を得てつり合いを持った状態のことともいえるでしょうか?
支持は骨や骨格筋に限らず多くの身体的パーツがかかわってくるでしょう。



太極拳でもダンスでもウォーキングでも、
全身的に協調したバランスが取れているカラダの安静部分を作り置き、
一部の身体パーツを不調和に転じさせアンバランスさから動きという活動を作り出していく。
ただそれは時として逆のことがいえるときもあり、
重力に吊りあわないアンバランスな活動状態のなかに、重力に吊りあったバランスが取れた静的な部位を置くというときもあります。

どちらも見方次第では同じことをいっていますが、
意識の置いたところの違いにより安定と活動の押し出しのバランスが異なってくるでしょう。

動的な可動性をあらわすモビリティ状態を実践中は、ともするとモビリティに意識を奪われてスタビリティ(安定性)がそっちのけになるが、
そのような動きは{死に体}とかいわれるような、意図的な動作・操作がかなわない{生きていない動き}です。
身体を軸として支える部位の安定性が失われた動作をすれば「動作が流れてる」といわれるでしょう。
それは視る人が見ればわかります。






合気柔術をなさっておられる方がメールで、
まさにこのスタビリティとモビリティの共存する操作を修練中という話をお伺いしました。

身体の内部を通る重力線ととらえるか、
身体のパーツを下段からひとつずつ積み上げると思ってみるのか。
可動性を意識すると安定性を見失い、
安定性を見すぎると可動性がぎこちなく起きる。

こちらの合気柔術をなさっておられる方は、頭部に物を乗せて落とさないといった
身体の各部位が重力につり合いがとれた状態が首や頭部で見て取ることができて、
そうした者たちを見つけては粋に輝いていると語っておられる鋭い感性でモノをみておられるので。

技中のスタビリティとモビリティの優先順などの設定や部分上の配分などにおいて、
きっちりクレバーな計算をしていかれそうです。



ただ私にとってはスタビリティとモビリティ、特にまん丸のなかの点の描画のようなスタビリティのデザインが難しくて。
言葉で言うのはたやすいことで、身体でおこなうのは至難の業で。
正直に言って、気を抜けばぼろがとめどもなく出てきてしまいます。
施術中に安定性と可動性を施術者が体現できればいい施術になるのだとわかっているのですが、
いまだに可動性・モビリティに意識が持ってかれて動きの統合が破綻していることがしょっちゅうです。
真剣にどうにかここは身に納めなければと感じて練習することで、少しずつ発見できるものが上乗せされるのですが、
自身の身体を立体化した体をつねにぶれずに持ち続ける難しさにあえいでいるこのごろです。
(お客様の体を観るときは常にスケルトンで立体化を脳内で描く習慣があるのですが、自分の身になると、身体の前面の意識が強すぎて。。
そちらに持ってかれてしまうため、ことさらに手を腹部と腰部に当てて厚みを手作業で確認しなければうまくいきません)
思慮は未熟ながらもわかってるところもある。だがそのわかっているところさえも体がうまくついてきてくれないもどかしさ。。。
私はひとりで自室で稽古をするものの、ひとり稽古の限界を感じざるを得ません。
今日この頃です。





最後に余談ですが、日本古典の能楽の能の舞も、
個人的な見方で恐縮ですが、
きっちりとスタビリティとモビリティが、これほど見事に表現なさっておられ全面にそれが映る芸能は少ないように感じました。
バランスを取り協働し、コアの筋組織がそこに命を吹き込む。

身体の細部に至るまで、きれいにそれぞれのその姿勢上の役割が感じられておられるようです。
まさに重力との釣り合いを大事に感じ続ける素地が修練で体得されておられ、それをもって舞うような、
私どもの一般の者たちとは異なる質の身体の道を通られているように感じます。

抗重力筋(姿勢筋)や骨格で正しくバランスがとれているときほど、無駄な筋の力みは脱力がかなえられ、
繊細な身体の操作も、そして硬さでささえる組織が生きたおかげで他の流動性ある液の流れは順調となり、
生命エネルギーの力は高まって外に気が放たれ広がりがみえていきます。