レベル上げの話

今回のブログネタ。施術関係の話ではなく、申し訳ありません!!

コーチングの先生の施術をさせていただいた一昨日前ということで、
コーチング関係のカンタンなお話をさせてください。


【レベル上げの話】

Aさん:「知っている
・「知識」を本を読んだりネットで検索、講演を聞いたりテレビの特集をみたレベル

Bさん:「知っている」⇒「できる」
・「できる」は知識をもとに行動に移し、とりあえずの成功体験を得たレベル

Cさん:「知っている」⇒「できる」⇒「やっている」
・「やっている」は余裕でできるように進化し、自分に最適なやりやすい方法が獲得・習得できたレベル




Cさんは困難を乗り越えて得た成功体験を下地とし、
最大のチャレンジに挑むことでなんとかできたところから、容易にやっていけるようになりました。
そんなCさんのレベルまで達したとき、
Aさんの知識がときとして未熟で見当はずれということが透けて見えることがあります。
それでもAさんは自信を持って「知っている」というとき。
本気で「必要な知識を持っていると錯覚している」のです。


今はネットのおかげで、情報格差が格段に減っているといいます。
ちょっと知りたいと疑問に思ったことがあればインターネットで検索。
それで知識が打ち出の小槌をふるようにあふれでます。
高価な本を買うまでもなく、タダで、です。


学問という言葉がありますが、
学問 ( がくもん ) とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法とウイキペディアにありますが、
私が尊敬している吉田松陰先生の口にした言葉で興味深い、高杉晋作とのやり取りがありました。
高杉晋作吉田松陰に文を持って持論を伝えたとき松陰先生が高杉晋作に返した文には、
「学問が浅いぞ、君は!学問を深めなさい」といいはなって高杉晋作を発奮させました。

学問は、その文字をひとつずつにわけると「 学 + 問 」となります。



見識が狭く自問自答の数が不十分であれば学びは浅い。
大局に立って丁寧な自問自答の数を十分なせば学びは深い

Aさんの「知っている」レベルは、見方が狭く盲点が多い状態があるため学問が浅いといえるのでしょうか。
cさんの「やっている」レベルまで達するには、知っていたつもりといった思い込みが引っぺがされます。
知らないことやわからないことが見つかり、解決しなければならないことに直面して自問自答をし始めます。
それが繰り返されて進むうちに、学問を深めたものの見方へとレベル上げがなされていきます。



なので、私が学んだプロコーチ養成コースで、最初、口を酸っぱくして講師が言っていたことは、
「自分は知っている」という思い込みや錯覚を捨て、
「私は知らない」というスタンスに立て
ということでした。

「自分は知らない・わからない」という事実を尊重し知るための自問自答をはじめよ、
「私はそれを知っている賢い人間だといいたい」といった誤ったプライドを削ぎ落せ。

知ったかぶりたいというプライドがあるうちは、
学問の進捗スピードは遅々として進まない。
それを木っ端みじんにぬぐえたとき、
人は学問が加速し重要な盲点にも気づいて進化を遂げます。

コーチ自身が、知ったつもりで話を聞かないようにしなさいというトレーニングを受けてきました。



それをたとえるなら、
梅干を食べたことがない西洋人のシェフに、
「梅干しはすっぱい」と説明し伝わる情報量は微々たるもの。
食べてもらえばそのすっぱさの質がわかります。
味覚を通し自分の料理への利用も思いつくものです。
自分の身体感覚のひとつ、皮膚感覚を通しての経験があって、
言葉では伝えきれない欠落した情報を補い、
自身の感情を喚起して腑に落とす。
そのとき活かせる理解につながり、成果を生み出す段階となり「受益」がはじまります。


コーチの仕事は、「梅干しはすっぱい」とだけでわかったつもりのシェフに、まずは試食をうながす。
イヤだとごねたら、なぜいやだと感じるか言葉に出すようお願いして、経験を狭める考えをしていた自己に気づきをもたらすように。
その嫌だという内容がクエン酸アレルギーだとわかれば、経験を見送る理由に納得してあいづちをうてばいいだけのこと。

美味しんぼアニメの山岡士郎なら、安物の梅干しじゃなく豊潤な甘みさえ感じる最高の梅干しを差し出す場面でしょう。
そんな梅干しは、レモンのすっぱさともビネガーのすっぱさとも違う。
そう感じて梅の持つすっぱいだけじゃない豊かさをわかったとき、
自分の仕事にそれを活かしたいと熱が高まりすばらしい梅干をベースにした料理ができる、かもしれません。

まぁ、知名度の高い伝統的な食材を試す努力を惜しむシェフなどいないと思いますが。

頭で知ってる知識を超えるきっかけを求める意識が大事なんだなと思います。
体感して学ぶことがなければ、プライドを持っていうべきです。
「私はそれを存じ上げません」と。



施術者が勉強不足でお客様の症状が把握できていないとき。
そのときに堂々と「私はその症状は存じ上げません。だから、次回までの宿題として調べておきますね」というべき。
もとより整体の施術分野は、一部の専科を打ち出している整体院を除けば、膨大に広い。
それをすべて根っこから最先端知識まで熟知しているといえるほうがありえないのです。
だからあたかも知ったふりでうなづいて頭の中ではちんぷんかんぷんのほうがよくない。

だから施術者は恐縮がらずに笑顔でわからないことを認め、宿題に励むものです。

その上で施術者は知識を得ただけではとどまらず、
そこから施術技法へと改善の糸口を探索します。
それが妥当なものが見当たらなければ模索します。
そうした知識を元にして実際の施術をするならどう動くかとシミュレーション。
それが不十分ならけがをさせる恐れもあるので、納得できるシミュレーションがかなわなければ先に延ばすしかない。
または他の方法を探索します。

そうした臨床知識と技能を総動員させたシミュレーションの完遂が、「できる」段階に近いですね。

それを元にお客様の施術に活かし、3~5回ほど繰り返したらシミュレーションでは見えてなかったところもあらわれます。
そこからまたできる深さを増すための研究に入りこみます。
ここからが数日でいいところまで進めるものもあれば、
数十年単位で続く研究もでてくるのです。

そうやっているうちに気づけば「やっている」という段階になります。


ここまでくるとひとつの今まで存じ上げませんといっていたことに対し、
うなづいて話をお伺いするのが自然体でおこなえるようになっていきます。