今年の正月に出歩いた際に。
これほど認知症という言葉が出てきたときはなかった。
目黒不動尊の大晦日のお参りのときには、
認知症の母が迷子になったという女性から助けを求められた。
一昨日前、
私が大井鹿島神社に詣でたとき。
寒さが増し夜に差し掛かるころ。
そちらでは目を疑う光景だった。
2時間以上も、
わずか数センチしか身動きを取らない80代ほどの男性。
カーディガンだけでダウンジャケットなどは着ていない。
神社の神主が拝殿を閉める際に気になさっておられた。
私は御札やお守りをお焚きあげする炎越しに見守るしかなかった。
すでに幾人の参拝する人々に声をかけられてもいた男性。
一切、無反応のままで、私がそうしても眼の焦点がこちらに向くことはなかった。
そして夜中の2時など歩き続けて帰宅途中。
そのような類似した印象をうける方々を目にした。
今まで神社仏閣史跡巡りでは、
思い起こせばこのような経験が皆無だったのです。
そのことに気付きました。
だからいきなりなぜ、
こうも気になってしまうことに出会うのだろうか。
偶然か?
それとも、
なにかを暗示するものなのか。
私の頭が混乱をきたした年末年始でした。
一人で考えこむタイプなものでして。。。
胎児が卵子と精子が結びつき、
成長する進化の過程でおこることですが、
生きるのに必須条件な腹部の消化器官が
まっさきに発生します。
小腸がぐにゃぐにゃっといくのはまだ先ですが、
そ消化吸収して体を生かす力を得た後に、
あたかも小腸とそっくりさんの頭脳が現れます。
小腸のぐにゃぐにゃっとした白子のような形状は、
大脳の形状に合い通じるところがあると思った人もいるのでは。
中医学では、相似する器官同士に相関があると考えるようです。
腎臓の形はそら豆に似ていて、そら豆は耳の形にも似てるよね。
じゃ、耳も腎臓も骨を立てる、そんな機能を同様に持っている。
そんな見立てをしていったり。
その手の相関関係がありそうなものは、
じっくりと体を観察すればいくつも見つかります。
そして言い得て妙と思えるほどの相関を見出していけるものです。
腹部の小腸と大脳の相似形相関の深さを考察していく。
その考察が進めば進むほど
腹部の小腸を、気功等をしておられると腹脳という呼び名で呼ぶことも妥当だと思えるところがあります。
そこにはみていかなければならない、
大切な優先順位的問題があります。
それは腹脳が上位本店優位で、
頭脳はサブ的存在の出張機関。
そう心得ることの大切さです。
頭脳を、感情や思考でフル回転させますと、
大脳にはそれに必要な血液の増量が起こります。
通常でも心臓からの1/3ほど血液は頭部に流れます。
それが感情ストレスが溜まったり、頭脳労働が過酷に長時間に渡れば、
腹脳の出張機関としてこじんまりとした作りでしかない頭脳ですから。
オーバーワーク気味になればオーバーヒートしていく代物でしかない。
おそらくですが、
頭脳と腹脳をパワー比でみれば、
頭脳 < 腹脳
という不等式が成り立つでしょう。
頭脳を休めるため、
頭脳労働が激しい方々は感情の使いすぎというものも含め、
情報断食や瞑想や、感情の整理などをしていく必要がある。
私が神社仏閣史跡巡りをするのは、
平素の状態から離れた情報断食をしたいからです。
だからひとりきりだったり気の使わずにいれる一部の人と。
というと人からは「独りきりでは寂しくないんですか?」といわれそうです。
ですがな〜んにも、考えないようにするためのお参りです。
とにかく、聖地では心身ともに新生するため、
忘れますし切り捨てますし切り替えるのです。
(ただちゃんと御祭神には心から参拝出来たことの感謝を伝えるのは忘れてません!)
私にはそのような時間も必要です。
自宅にこもるという手もありますが、
インターネットやら見ずに溜まった取り置きのビデオ録画ものや、
たまりに溜まりきった書籍群。
それらから逃避する参拝時間が思索を深め純化させるように感じられる。
それがなければ、今の私はいません。 ^-^
そして腹脳を活性化させるためには、
横隔膜を使った呼吸が必要であって、
それには大腰筋の使用が正常に起こなされることが大事ですよね。
大腰筋が強烈に横隔膜を上下動させてくれることにより、
腹式呼吸での代謝が活性化していくのです。
電気的性質を持っている空気を取り入れて、
それを体の機構を活性化させる力にします。
脳というものは神経。
神経は「電気」で情報をビビビッと送る仕組みですから。
横隔膜下の▽形の部分のみぞおちに、
十分な空気を吸い電気を蓄電していかなければ、
大脳も腹脳も機能しづらくなるのですよね。
特に大脳は横隔膜より上方に位置しており、
腹脳のように直下にあるものとは違います。
だからきっちり大腰筋を使えたウォーキングやランニング等々。
できるといいことですよね。
ただ大腰筋を使うということは、
日頃大腿直筋ばかり使う人には、
高度にスキルフルな難事業です。
つねにさらにスマートに大腰筋を活かせるように研究をしていくことが望まれるものでしょう。
いい加減さが全面に出た適当さでは、
結果的に成果よりもダメージが残り、
大腰筋を使っているはずが体を壊す。
そんな人も多くおられますから注意が必要です。
もしわかりづらいと言う方は、
行動系のボディワークをレッスンしてくれるところへ数度でも通ってみることをおすすめします。
または合気道や中国武術等でも、
動ける人はやはりコアになる深層筋を活かして動作しているので、
常人とは動きの質が異なって見えてきます。
ただ、達人が少数で常人が大多数ではありますが、
本来は生まれたての人間の殆どは達人であったと。
私は信じていますし、
生まれてきてからへんてこな動きの癖があるものを教えこまれたもので、
そのような間違えた学習ではなく、
正当に体を飛躍させる学習を得たとき、
人は水を得た魚のようになるでしょう。
少し脱線しました。 ^-^
また横隔膜の上下動前に起きる骨盤隔膜の上下動は、
仙骨の前後の動きがスムースであったときに起こる。
仙骨の活性化した動きが後頭骨の動きを同期して起こしてくれる。
それで頭蓋骨の縫合部分を解き緩めてくれる。
ひと呼吸ごとに頭蓋骨は前後に伸びたり左右に伸びたりできるようになるのです。
そのような仕組みで、頭脳はひと呼吸ごとマッサージをして気持ちよくなれます。
それが健康な脳を維持するのにも必須条件だと言えるでしょうね。
そうなるには頭部の骨相が正されているかどうかに関わります。
後頭部や前頭部、頭頂部などが絶壁だったりいびつであれば、
球形に近づけるよう正すための、何らかの努力が必要でしょう。
脳のマッサージが怠っておられることは避けるべきです。
つまり非力な出張所住まいの頭脳に多くの労をかけてはならない。
できうるだけ休ませる腹積もりで計算していかなければならない。
現時点の私の施術の力では、
認知症が進行なさった方の施術では成果がだせるほどではありません。
ただお客様として、今まで認知症の方がお見えになられたことがない。
そうであるから、どうも言えないとも言えそうですが、
ですが、数時間も暗がりとなった神社境内で、
震えもせずじっと立ち尽くす男性を見ていて、
どうもできない自分を感じられて切なかった。
現時点の私の施術は、
認知症になっておられない方々が、
その後も調子のいい状態でキープすることができるようなサポートはできるのでは?
そのようなところが、
どうにかという位置関係であるのだろう。
ただ、この問題とは身体的な問題だけではないような気がする。
現代社会は高度にシステム化された。
今のような時代ほど、
大自然に立ち向かって生きていたころには考えもしなかったことが頭をもたげてくるといいます。
生きる意味を問いわからなくなり地団駄を踏んでしまったり落胆をしてしまう。
自分らしい道を求めたいが、そうは行っていなさそう。
そこからくる苦悩やつらさから逃げたくもなってくる。
そういうときは
アウシュヴィッツの生還者である心理学者ビクトール・フランクルの、
いくつかの大事な言葉を思い出されてきます。。。
今は、フランクルの書を読んで勇気づけられることも大事な時代かもしれません。
生きる意味を深く問う。
そこからフランクルの冷静で暖かな瞳が見据えた像をどのように理解すればいいのか。
そんな気がしてきます。
(ただいま、フランクルの本をちょっとずつ読むぞ!という段でして。偉そうなことはいえません ^-^;)
肉体的なストレスも、大腿直筋を使って歩き続ければかならずそれに比してかかり続け、
加齢にともなってそれは雪だるま上にのしかかってくるものですが。。。
それ以上にきつい感情を傷つけて血を流すほどのストレスがあるのかもしれないですね。
意識の表面には登ってきませんが、水面下で頭脳の感情をつかさどる領域の脳に負荷をかけ続けてる。
そのようなことがあれば、それも取り除いておきたい問題なのでしょう。
いまのところ、そうする有効な手立てを私自身は身につけておりません。
ですが、心身一如として考えれば、
私は体をサポートさせていただき、
ペアで心をサポートしてくれる人、
どこかに求めるといいのでしょう。
そのようなことを切に感じてます。
ただ、心理学では、自分が認識した世界が大きくなって目の前に現れてくるものだともいいますから。
心身ともに生じるストレスばかりに目を配りすぎるよりも、
根源的に感じられる楽しみや喜びに火をつけて生きること。
そんな目論見を、懸命に打ち出して生きる人が増えること。
それで世の中全体のバランスが底上げされるのもいいのでしょうね。