能での胴体が(静)で脚が(動)と分別し安定した姿勢や動き

先日、池袋で「としま能狂言と能の宴を見せていただく機会をあたえていただきました。
(Gさん、ありがとうございました!)
演目・出演
解説/観世喜正
和泉流 狂言「樋の酒」野村萬 ほか
観世流 能「道成寺」観世喜正、野村万蔵 ほか

私はだいぶ昔に、一度薪能を観たことがあってそれ以来です。

狂言樋の酒」に魅かれるところが多々ありました。
ですがの「道成寺」の人を舞台空間へと引き込む力に、
改めて700年の能を受け継ぎ発展させてきた芸術性の高さに圧倒されました。
例え方は適切ではありませんが、
矢沢永吉ライブを観にいったときに感じたときのように密度の濃く染まった時間が瞬く間に過ぎたときのようです。
ワンシーンごとに正確な記憶にとどめられたわけではなく、
舞台上の演者や奏者が発する熱い波が押し寄せてきて身を包まれた印象だけが余韻として残り続けています。

ただその日の目的のひとつに、
舞台上の狂言・能の和の所作をつぶさに観察」がありました。
セリアで買ってきたオペラグラスを覗きつつ、
生の演者の動きを眺め参考にさせていただくことができました。

生で見た絵と映像でみた絵では、印象が異なって見えます。

胴体と脚部の主従関係ですが
胴体が主で脚部が従たるもの」とつくづく感じました。
歩き、立ちとも、つねに胴体がみじんもぶれずにいます。

胴体が(静)で脚が(動)と分別し安定した姿勢や動きがかなえられる。
それは優れた動きの基本と考えられる「動中静あり、静中動あり」の体現が見えてきます。
意外にこの所作、人様が見てほめていただけるほどの品の良さまで格別なものとするには、
体幹のすぐれた支えの保持の継続性とは、体幹の支えの筋力のみならず、
脚の操作で体幹へぶれを生じさせない脚運びの用法がかなえられる必要が出てきます。
そのようなことが実際にできて演じておられる演者の体運びを存分に観る機会は、
私にはそうそうあるようでいてありません。
特に「和の所作」と呼べそうな身体操作は!


ときとして私たちの幾人かは、
胴体が(動)で脚が(動)となって(静)が事欠くことにより、
動きが乱れて流れて合理的な所作感覚が失われてしまっている。
それによりぶれつづけてあちらこちらへと胴体が傾斜しまくり、
それを倒さぬように支えるために踏ん張る脚の外側の筋が固められることとなります。
そのような場合におこる複雑な身体の操作にかかる労力は莫大ですから、
それが疲労の蓄積へと転化して脚や腰の筋の癒着へと展開されています。
胴体がぶれつづける動きを立位や歩行時になさる方の場合には、
そうなっている自覚が得られていないケースが多くあるはずで、
あまり他者から修正を迫られることもないはずです。

ただ能を習い始めたという方の場合には、
厳密に修正を求められることとなります。
メッキがはがれるほどのカンタンな修正はたやすいですが、
それでは他のよくできた演者と並べば浮いてしまうでしょう。
からだの外見(そとみ)からでは見えないでしょう。
そういった所作は筋電計測をする機器で測れば
一般の者とはまったく違った筋の操作により生み出されています。
能の修行を信頼置ける先生により得られた稀有な方は、
そうした定理について学ばれる機会があることでしょう。
素晴らしい!


他にも多々動き方の視点で気づき感じることもあり、
良質な動きの所作を目に焼き付けることができました。
もちろんいまの私ががそれを真似ておこなうのは悔しいが至難の業です。


そうは思いながらも、
まずは質の高い所作をする方々に興味を持ち触れることは、
肌感覚でそれを知るには有効なことだろうと感じますので。
ほんとうに今回のとしま能では、いい機会を得られたと喜んでいます。^-^