道を気分よくゆずること


20年近く昔の話です。


どこぞのマニアックな拳法屋さんと交流があった。
私自身が拳法に取り組んでいたわけではなく、
外側から仕事で取材を申し込んだことから始まったつきあいだ。


道場で静かで精妙に体を動かしている人たち。


誰もが体つきはすばらしい。
外見は細く色白に見える方も道場着を脱いだ瞬間驚かされる。
筋がひとつひとつ機能的に分かれていた。
いかついわけではない。
あくまでもしなやかに。


彼らと共に飯田橋駅へ帰った。
つもる質問をさせていただき、
教えをいただいた。


そのときに前方から若者の一団が我が物顔で道を防ぎ進んでくる。
よけて通ろうという意志は感じられない。


「やばいかも・・・」
私は人に道を素直に譲るタイプ。
だから特段トラブルはないが、
礼儀を重んじる道場の人たち。
注意をして乱闘に。。。


だが私が道の橋によけたと同時に、
道場の人達が一斉によけた。
気持ちよく「通して上げますよ」という感じ。


少し意外に思えた。


私:「間嶋さん、あなたたちならば注意するかと思いましたよ」
すると、
「注意してもだめ。
小さな子供じゃないから変わらないでしょ。
無礼な人と関わらないこと、これでいいの」
という。


逆に対面する初老の男性に私たちが道を譲ったとき、
丁寧に「ありがとうございます」とおっしゃられた。
すると皆で「お気をつけて」といって会釈をした。


すごくすがすがしい。
礼に対しては礼で迎え入れる。


後で電車に乗り「なぜ道を相手に譲か」を詳しく聞いた。
徹底した無用なトラブル回避のため。
これが答えだそうです。


彼らの動きは体の芯から動くので豊かでおおらかな動きに見えた。
正面で動かれると常人の動き方ではない。
スピードが目で追えない。


練習直後、まだ気が高まっている。
そのときにいさかいがあれば相手をあやめるかもしれないんですよ、
という。


彼らは現在主流の健康目的の太極拳を学ぼうとしているわけではなかった。
眼やこめかみ、喉、みぞおち、金的など急所を狙う。
練習中は寸止めしているので多少の事故しか起こらない。
だが自分の心が乱れているときもある。
そのときには自分の態度が無礼となる。


反射的に技は出る。
そのとき寸止めできない。
最悪の結果がわずか3秒の間で起こってしまう。


彼らが体の運用法を学ぶとき、
同時にさまざまなことを学ぶ。
自分が殴られたときの体の痛みを通して、
人をいたわる気持ちを持つ。
強い力を秘めたもの同士。
互いがその力を認め尊敬しあう。
礼が互いの身を守るルール。


人格を欠けば凶器に成り下がる。
だから技の冴えと同時に、
人格を高める大切さを知る。
人格も丸くなる、
器も大きくなる。


体を通して身につけた礼。

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無礼な人同士、
どんなに表面上仲良く見えたとしてもわかり合えない。
けんかをしたら戦争にも発展しかねない。


トラブルは無礼VS無礼で大事になる。


片方が礼を持って道を譲れば、
無礼もそう絡んでくるチャンスはない。
相手に道を譲っても負けではない。
無礼をいただかない知恵なのです。


体を通して身につけた礼を持つもの同士では、
出会った瞬間に互いに強い結びつきを感じられる。
心が通じ合う。
一度会っただけで、
生涯互いを忘れないでしょう。

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余談だが、
私が練習中自分の左手の肘前の骨の太い部分をたたいたとき。
実は力を抜いて叩いたのだが、
瞬間「やばっ!」と思った。


骨折したと思った。
肉は痛みがなく骨がミシッといった。
だが骨折は免れた。
しばらくすると腫れ上がった。
2日ほど夜も痛みで眠りに就けないひどい状態。
今もまだ痛い。


もし腰が少しでも入っていれば折れてた。
恐ろしい。--1


少し体の使い方がわかっただけでこの様子。
まさに道場の彼らは私の比ではない。
「人をあやめてしまうことが恐ろしい」
・・・という感じ方は切実だったはず。