散歩して驚いたことですが・・・

碑文谷のサレジオ教会は江戸のサンタマリアといわれる由緒正しい教会です。
昨日、その教会近くをいくと驚きました。


このたびの大地震により教会の塔頂上にそびえ立つ十字架が折れていました。
36メートル上の十字架は、
首の皮一枚落下をまぬがれていました。


もしこの十字架が折れていましたら目の前がバス停です。
大変なこととなっていたでしょう。
そうならなかったことに感謝です。


すでに修復作業中のため、周囲を工事用のあみあみシートで囲っていました。


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震災後に、しばらく外出をひかえていました。
私が目につかないところでもさまざまな震災の爪痕が残っていることでしょう。


それは家財や建築物などにとどまらないのかもしれません。


人のこころ・気持ちにも不安を残しているでしょう。


ひどい時には不安や恐怖が大きくなり
身がすくんで動けなくなるかもしれません。


私などは楽観的なタイプではないので、
動揺をひたすらに隠そうとしてもバレバレでしょう。


ですがとある医師が書いた本に次のような文章がありました。


『人間の死亡率は100パーセントです』


たしかにそのとおりです。


どのように健康な人でも、
縄文杉の樹齢と同じほど
生きている人間はいない。


病気を患い気持ちが塞ぎこむことで、
病は治りにくくなり悪化を早めます。


そうならないようにと願いを込めたアドバイスでしょう。


人間は誰でもいずれ死が訪れます。


健康なときはそのような実感がないでしょうし、
そのようなときがくることを強く恐れるものです。
恐れが身をすくませ気血の流れを妨げることにより、
いま、自分がなすべき仕事に注力できなくなります。


昔の武士道は、
死生観というものがあったと聞きます。
つまり死生観とは死が先にきて生が次。
重要な優先順位付けはこの並びでした。


避けることができないいずれ訪れる死。
そちらに至るまでの過程が生きること。


ならばこそいまだ死んではおりません。
生きている今という時間を大切に考え、
生き切る考えを持つべきなのでしょう。


いまだ来ずの未来を恐れがんじがらめにならずにいたい。


私が好きな武人:山岡鉄舟が開いた臨済宗のお寺の名前は
全生庵』と申します。


その名の意味は深く知らないのですが、
「全生」とは「全精力を傾けて生き切る」という意味だと思っております。