体から語りかけてくる声を聞くことができるのは、ダメなことなの?


体からは多くのメッセージを語りかけてくる。
私たちはその声を聞くことで、
危機や不利益を回避できます。


施術を受けることで、お客様にとって予想外のことが起きたと感じることがある。


それは、なにか?


・以前より歪みが感じとれるようになって、
 体の左右差が気になってしかたがない
・体の関節の詰まりが気になってしまう
・筋肉の張りが気持ち悪いほど感じる・・・


そのような、今までも感じていたか、またはまったく感じていなかったか。
さまざまな場合があるのだが、


どちらかというと、
「ネガティブな印象を持った負担感」を得たように感じられる人がでてくるときがある。




それは、なぜか?


実際は、今まで、自分の体の奥底から聞こえてくるべき声を聞けない体になっていたから、
それらの状況が無視され続けていただけのことです。
すでに体内に炎症が生じるような硬い筋肉の部位は、
痛覚からくる筋の張りやつねられたり熱を持ったり等の
様々な訴えを立て続けに重要な要改善点を伝えるメッセージとして教えてくれようとしています。


そのメッセージのボリュームは必要に応じて大きさは決まっている。
その警報音を受け取ることをあきらめ耳をふさいでいる自分がいる。


またはメッセージはヴィジュアル的に感じ取る人もいるようですね。
そこから先は「赤信号」になって渡れない道。
それなのに信号を見ることなしに進みだした。



自動車にはアクセルとブレーキの2つが備わっていて、
はじめて速度調整が可能で安全な運転ができるのです。


「前にすすめ!」というのがアクセルで、
「ちょっと待て!」がブレーキです。



実際は体の内側に自分であずかり知らないといえる気づかないうちに作っていくしこりたち。
それがさらに上乗せしてできてしまうような使い方をすれば、
どのような解決策を施すでしょう?


健康な体から語りかけてくる声を聞くことのできる人ほど、
「ちょっと待て!」と減速のブレーキを踏むものでしょう。
本能的にかけたブレーキを踏む背景には意味があるのです。
しっかりした理由です。
その理由に対して気をくばることで、
再度、快適にアクセルを踏んで走り出せるようにするのが、
私には正解だと思えます。


ただ「ちょっと待て!」というブレーキを踏むやり方とは、
体の内側で痛みを感じるとか、
張りを感じるとか、
歪みを感じるとか、
様々な負担感をともなう伝え方なのです。


その負担感に対して無視をしようとか、
強制的になかったことにしようとする。
そういった対処をしようとするときは、
かえってその後に、
もっと痛みを強く張りを強く歪み感を強くして改善を訴えてくれるのです。
それは良質な身体的操作上の指導員を雇っているかのようです。


ただその無視や強制的になかったようにしたり、
または負担感を減少させる手立てを講じないと、
やがて、
体から語りかけてくる声が聞こえなくなります。



その状態に陥った方が、
いざ、体の状態が改善してきたというときには、
また、体の声を聞き届けられるようになります。



つまり、
不健康な体から語りかけてくる声を聞くことのできない人でありつづけること。
体からの警報に対して、耳を、目を、注意を向けられずに、
ブレーキを踏もうとする動作をとらないで突っ走りだすか、
または過剰にブレーキを踏んで動きを抑止しすぎるように。


そのような状態から、ひと皮むけてきた状態ですね。


私には経験上、最初に体の外側にある骨格筋の表層部が虚脱や緊張などの異常なテンションを表し、
その後に徐々に深層筋部分へまで異常が湿潤化していくように観察しています。
そしてその後に、深層筋というとちょっとイメージしづらいかもしれないが、
体内の胃や肝臓や肺や心臓や大腸や小腸や腎臓や、、、その他すべての臓器たちは筋肉組織で作られ、
それこそ最奥部の深層筋と言えるもので、
そこにまで臓器の筋組織の異常具合が湿潤化していくようだと私は考えています。





ざっくりした筋肉の凝り化する進み具合のイメージですが、


表層筋 -> 中層筋 -> 深層筋 -> 内臓筋


のように、
筋膜の癒着の進み具合に比例して問題が奥まった方向へ進行していきます。
この並びは左側が一番リリースが楽で、右へ進むにつれて困難になります。



ただスピリチュアル系のことからの受け売りではありませんが、
たとえばダメージを受け取った深層筋等に対して、
人格を持ったものと同等のものとして尊重し続けながら
そのものへと語りかけていくようにしていくこと。


友として名を呼び、ねぎらい、思いやる気持ちをあらわすようにしていく。


そのような今までの活躍や今の活躍、そして今後のお世話いただくことに
心からの敬意を払う親近感を持った感情から言葉かけをし続けてみるとき。


ときどき、
あたかも、
そう言葉をかけ語りかけた体の部位から、
返事が聞こえてきたような感じをえられるときがあります。


そういったときに、
私がその部位を触れて筋の状態をチェックさせていただくと、
まれにですが、驚くほどその部位が緊張から解放されたかのようなゆるさをあらわすときがあります。




私は、そういったことも含めて、
体から語りかけてくる声を聞くことは。
たとえ、ネガティブな負担を蓄積した層にアクセスして痛みや負担を感じたとしても、
身を守るためのお役を持った友として受け止めて行きたいと思います。


そんなときに、
「この痛みで私に何を伝えようとしてくれているの?」
「できれば、もうちょっとわかりやすく教えてくれないかな」
とお願いすることもいいでしょう。


インナードクターと呼ばれるものが、
私たちの内部に存在し続けました。


だからお医者様がいなかった原始時代でも、私たちの先祖は生き抜けたわけです。



そこの部分を友として、協力してその課題に取り組み乗り越えることができれば「体は若返り」ます。
やはり体から語りかけてくる声を聞き賢明な対応を心がけたいですね。


反対に、そのことを不安や恐怖として耳を閉ざしてしまうように感情を濁すならば。
ついつい痛かったり息苦しかったりだるくなったりした生きた心地がしないときは、
問題解決のための理知を持った人でも、粛々と理詰めで動けなくなるものでしょう。
本能的な危機感からくる焦りなどは半端ないものですから、起きることも当然です。
人生とは、ときとして楽しいことばかりで埋められたものではありません。


ただ事の大小はありますが、大事なこととは。
日頃から自分の体から語りかけてくる声をどう聞くか、
そして自身の体に敬意を払い正当な扱いをしていきたいと声をかけるか。



しずかに部屋で座禅を組みながら考えると、
そのようなメッセージを受け取ることがあります。 ^-^