無意識層からの助言を手放すことは、身体操作の現場でも必須だと感じます

無意識層からの助言を手放すことは、身体操作の現場でも必須だと感じます

ユング派の老松克博氏の本を読む機会を得て。
深層心理の世界へいざなうユング派のあつかう意識下と無意識下。
意識を補完するために無意識があるとされるようです。

ユングが提唱した心理療法のテクニックの一つに、
「アクティヴ・イマジネーション」があります。
イメージ(想像)により無意識下を把握する手法です。

後天で得たコンプレックスやトラウマが無意識層にしまわれておれば、
事あるごとに意識が判断しようとするときに、
そこからちゃちゃがはいってくる。

(お前はだからだめなんだよ)とか、
自動思考と呼ばれる声が聞こえてくることもある。
コンプレックスを得た時期といまでは状況も条件も異なるはずだが、
無意識からの声に意識は従うしか選択肢が思いつかなくなっている。

視野が狭くされているわけだが、
無意識は意識を助ける補助役となり自分を守ろうとしているだけだ。
そうした声を聞けば自身本来の能力が削がれ、
熱は冷め活動力が鈍るよう固まる。

本来の動きができないようセーブされているが、
それでも自分の身を守る仕組みに則った機能として存在するのが、
無意識による助言だ。。。



後天的に得た嫌な体験からのコンプレックスやトラウマを、
二度も三度も味わうのはゴメンだし危険だからいくなと叫ぶ。



これは心の中の作用ですが、
意外なことに、
身体の筋肉の使い勝手においても同様なことが現れています。

身体操作上きつくて呼吸が狂うほどの事態を感じれば、
それをコンプレックスやトラウマのように化けさせて
感情とともに無意識層に記録させられる。

無意識層にある記憶にとって優先順位が高いものは
強烈な負の感情で逃げるか戦うかという危機的な緊張状態を得て、
記録としてストックされていく傾向があります。

身体には自然で天然、そして自由な力が備わっているものだが、
そうした古いコンプレックス等の感情がはいった運動手法が
手放せなくさせてしまう。
自分ではこれで何不自由ない操作ができていると確信するが、
あり様からは肩こりなどの苦痛を被っており、
それに対して自分が作り出したものであるが、
どこか第三者から仕掛けられたものの被害者としか感じることができない。
事実がすでにそこで歪められていることを認められなくなってしまいます。
そうした沼に入ると熱量を持ったエネルギーが大幅に損なわれてしまう。
それで余計に調子が悪く感じてしまうもののようです。
そうした状況を無意識下で選択し続けて、
それが当然と強化学習をしていく。

やっかいですよね。。。



そうした古くなってアップデートすべき無意識層の情報。

そちらにアクセスする権限を持ち、手放すべきものは手放し、
その後に本来の自身の身体を再生し創造的な動きへとつなぐ。

そう至るには、
コンフォートゾーンで自分が既得したコンプレックスの札を読み、
マイナスのエネルギーへと流れ漏れる自己の間違った守り方を直せはいい。
(居心地の良いコンフォートゾーンに入ることがないと、ものがたりは始まりません)


そういった、無意識層のプログラムを書き直すことで
純粋な身体を取りに行けるだろうと感じております。
そこがなければ囚われの身が終生続くことでしょう。
私にはそこから脱することへのあこがれがあります。


無意識層へのアクセス方法を得るには修練も必要ですが、
自分のなかで、まずそのような作業が進めばどうなるのか。
そういった進行には、
大きな破壊とその後に続く新鮮な創造がセットになります。
単純なクリエイティブな行為ではないということは、
コンプレックス等の手放してから事が進むという手順だと理解すれば、
容易に想像することができるでしょう。


相応の期間が必要そうですが、
無意識との対話から自分の意識を真っ当なものへと導く事ができたら。
かなり面白いことが起きるんじゃないでしょうか。
わくわくしますね