体を祓い浄めていくという方法のひとつ

神社に行きますと次のような言葉を唱えましょうと書かれています。


『〜祓いたまえ、浄めたまえ〜』です。


心の貧しさ弱さや罪や病などの穢れ(けがれ)を神様の前で
どうにか浄化してくださいというようなお願いをいたします。


神主が唱える独特な抑揚や調子があるこのお願いを聞いて耳に残っている。


では、なにで祓い浄めたりするのでしょう?



ひふみともこ氏の 「神誥記」を読むと、
『火と水』でとてもふむぅ〜とうなづくことがありました。
そちらのアイデアを私なりに噛み砕きます。


まずは火で祓う。
「焼き払う」という言葉がありますよね。
火で穢れたものを祓うため燃やします。
そして灰にします。


水により浄める。
「洗い清める」という言葉がありますよね。


水で穢れを流して禊ぎをする。


『〜祓いたまえ、清めたまえ〜』というように、
その順番は「火により祓い」次に「水により清める」のです。

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そこで私の職業柄、
人体の痛みの治癒を考えてみます。


打ち身などで怪我をすると患部は腫れ上がります。
筋肉を使いすぎたり負担を蓄積しすぎてもそうです。
そのときの『炎症』という苦しみや苦痛は、
火で燃やすようにして患部を浄化し祓う過程である。


開腹手術をした方はわかると思いますが、
縫合された腹部は激痛。
だが激痛を麻酔で無痛にすることはしません。


なぜでしょう。


ご想像の通り、
炎症で苦しんだほうが傷口が早く癒えます。
麻酔で痛みをなくしてしまうと
いつまでも傷口は開いたままでふさがりません。
治癒の遅滞は傷口から細菌等で汚染される危険が続くことを意味します。
だから麻酔で無痛にすることもできるがそうはしないんですよね。


これもある意味、体の中の炎症という火で患部を浄化して癒しています。


同様に筋膜が癒着したりしこり化したりすると
筋肉に張りや痛みなどがでます。
これは患部を火で浄化しようとしているのだと私は思います。
神に罰せられているわけではないと信じています。


ただしこり化して筋線維が若さを失うような
炎症が起きている場所が体内にあるのですが、
その部分に酸素が十分ないと燃えないのです。


神経系統で痛みがあるかどうかを知るのです。


神経が働くには酸素が必要。
神経組織の集まりである脳も酸素が少なくなると機能低下して大変ですよね。
それと同じこと。
運動神経系統は働かなくなると野性では死を意味するため多少切れにくいが、
痛いとか痒いとかの知覚神経系統は酸素の供給が減少すれば容易に低下する。


意外に私どものような深層部位筋膜層をリリースすると、
深い部分のしこりは強い線維化から石灰化まで進んでいることがあります。
このような状態では血管を圧迫して血流低下させてしまい、
痛み等の知覚神経の働きが低下している。
組織が冷えている状態でもあります。


このような部位は痛みを感じられないため
患部を火(炎症)で浄化できないようです。


浄化できないならばその患部は患部のままでい続ける。


深層筋膜が癒着を起こし冷えて炎症するだけの酸素量がなくなると、
その癒着部が核になってその上にまた癒着部が広がりだします。
そして徐々により深部層の筋肉が冷えだして線維化から石灰化へと
状況が悪化するよう流れていきます。


つまり私どものワークでは、
急性の怪我の場合を除いて、
炎症があり痛みがあるといわれるほうが対応がしやすい。
だが「なんだか体が重い気がするけど悪いところはない。」といわれると、
ものすごくどきどきしてしまいます。
血圧の上が100を割るならなおさら緊張いたします。


私どもはその方にふさわしくないしこりを深層まで解いていく。
本来の炎症を感じられるだけの血液やリンパ液の浄めの水が流れる。
それでその方の内側にある神様が自身の体を癒しやすいようにしてくれる。


私は施術等では不要な痛みを極力低減させるような努力は常にしています。
ただ一歩ずつさらに深層部位がみえるように進むにつれて、
新たな痛みがこれほど蓄積なさっていたのかと驚きます。


炎症が患部を浄化し祓う過程であると理解できていれば、
そこまで奥を改善していく意義がわかるのだと思います。