宿命を語るもよし、身を整えるのを押すもよし

今日は、
友人に協力をしていただいて
コーチングらしきことをトライ。


コーチングともうしましても、
運動のしかたを伝えるようなティーチングではなくて。


「もしも制約がなにもなかったようならば、何をしてみたいですか?」
「自身の輝かしい将来像を描くとしたら、何をなさっておられますか?」
というようなもの。


なにを引き出されたかは闇の中。。。
まぁ初回はこういうものですね。 ^-^;


ということであったが、
3時間ほどコーチングワードが散りばめられた中で、話が盛り上がったのは確かです。
普段、顔をあわせてもなかなか耳にできないことが、話題に出てきたのは興味深いと思った。


私には楽しい時間だったので、「えっ!?もう、外が暗くなってるじゃないの」という感じでした。 ^-^
コーチングを受けてくれた方も、同様の感想を持っていただいたんじゃないだろうか。


こんな会話も、有意義に過ごす智慧が入ってそうですね。


さほど役に立つお約束を取り付けるまでには、私の話が進まなかったので、いつかまた、再チャレンジです。


またコーチングスクールにて教えていただいたツールを使ったり、
聞きかじったものをそのままお話をさせていただいたり。




心が前向きな夢を追っていると身動きが取りやすくなる。
自分が鼓舞されるような、ナイスな宿命を持っていると信じられているとき。


ちょっと話がそれるが、
産婦人科医が3歳位までの子供に、
「どうしてお母さんとお父さんのところに来たの?」と尋ねると、
「それはね、お空の上からお父さんとお母さんが仲が良さそうなのを見ていたんだ。
だからね、お父さんとお母さんのところにやってきたんだよ」と、
きまって口を揃えたように教えてくれるという。
空の雲間から、子供になる子の魂の目が覗いていると思うと、
不思議な話。


そっか。。。
「意識」や「感情」や「幸福になりたい欲求」があったんですね。


私も、そして他の人ももしかして3歳位に退行催眠療法を受ければ、
そんな記憶を思い出すのかもしれませんね。
産婦人科の先生がやさしく質問をするとき、
そんな風に思えるほど、子供たちが口を揃えて、そう応えるという。



そしてもしかすると、人は生まれてくる前に、
自分が今生で行う使命や課題を持って生まれてきたというように考える向きもある。
そのようなことは宗教家がいうことであって、
3歳時がそのようなことをつぶやいたという、
そんな記録はないかもしれませんが。


おぼろげながら、
私には自分自身、そのような宿命はあるような気がする。


そこから目が離すことができずに、
気づけば邁進しているようなこと。


それはささやかなものでもスケールが大きいものでも、かまわない。
社会にとって生産的かどうかなんて言うことも、、、どうだろうか?
関係があるかないか、私にはわからない。
ただ良識を持った者の内側からにじみ出た自分がもしかしたらこんな宿命を持って生まれたんじゃないか?
と思えるような『仮説』。


結局は、私には3歳のときまでの記憶さえもない身の上ですから。
当時考えていた、今生でやらねばと考えていたことなんて覚えてない。
あるかないかも、定かではないけど、直感としてあるんじゃないかな?
そう思えるし、そう思って人生を前向きに生きるのも悪くないと思う。


だから自分なりの宿命という『仮説』を打ち出してみて、
それが正しいかどうか検証してみる。
幾度かそのような作業をするにつれて、
少しずつ目利きになってくるのだろう。


自分がやっていて充実するものの傾向がつかめてくる。
それが見えて、しっくりしたものがみつかるときまで、
仮説→検証→仮説→仮説・・・・
を繰り返すよう努めて自分の内側の羅針盤に向き合う。



その宿命とは、
とにかく他人に褒められようといった他者から注がれる力ではないのだろう。


あくまでもそれを知ってしまったら、
自分の身の内側から沸き起こる「やりたい〜っ」という気持ちが大きくなって、
「行動する」のなんか、どんな苦難も楽に感じるようなことなのかもしれない。
また辞めたくても、腐れ縁のように付き合い続けるかも知れませんよね。
それで粘り強く結果をだせるところまで、成長していく。



成果がほしいばかりではなくて、
そうやって自分自身を珠を磨くように磨いて美しく成長させるというものも、
宿命を背負って生きる醍醐味なのでしょう。




ときには自身の宿命のようなものを忘れかけているときもあるかもしれない。


ただ、私は思うのですが。。。
宿命があるとかないとか、というのも、
そう考えたほうがモチベーションが上がればそう考えてもいいんじゃないか、
ということでしかないのです。




究極は、自然体のまま、こころを広く人生を楽しみ尽くしている人であれば、
そんな、宿命とかなんとかいわなくてもいいのかもしれない。。。




そんなことをいうと、コーチングをしようとするときに身も蓋もないことを言い出しそうだが。
ですが、武道家の先生方で達人級の方々の技をみれば、
勘所を、しっかりと把握しておられるからこそ、
シンプルで自由闊達なやさしい心根をもって、
その身の自然体から心の自然体を伺わせる。


そうなったときに見える境地もあるのでしょう。


私には、どちらかといえば、
そんな、自然体を体現できる身を持つことにこそ、憧れが強い。。。


そんな体を体験することができたら、
もう、それこそプライスレスの世界。


それは間違いないと思っています。


そこにたどり着きたいですよね。
まことに、そう願っています。




だから以前、ヴィパッサナー瞑想をしていた友人が、
私がコーチングスクールに通うというと怪訝な顔をしていた。


「鈴木さん、あんた、心を変える気なの?」という言葉。
そして、つづけられた


「僕はね、鈴木さん。体が整えられる仕事は尊いものだと思うよ。
何よりも真っ先に、そうするべきだと思う。
身が整わなければ、話しにならないことがあるって言うことは、
あなた、よく、知ってるよね。
そう、僕は思っていたよ。
だから、僕はあなたから施術を受けたんだよね。。。」



結局、心身の両面が整うというときに、身体が整えられる量に比例して、
心という体に左右されるものは操られてしまっているから。
そんなルールを、私も施術をする際に、多く見ています。


ただ私には彼がいいたいところの視点について、それだけじゃ足りていないことが、わかる。
文章化することができないほど深い意味を含めて語っているのは、彼の目をみれば、わかる。


宿命やらコーチングテーマやら、何やらなんて、そんなものを語るのは、片腹痛い。
もっと澄んだ目で、見つめ続けることだよ、鈴木さん!
彼の、気迫が込められた眼差しが降り注いでいる。


その後、私自身、コーチングって?という回答を自分なりに咀嚼して持つことができたとき。
彼の疑念について語り合える言葉を得てから、再会できればと思っている。



それぞれの者の考え方は、それぞれが貴重で珠玉の逸品。


どのように自分の体の感性がそれに触れて、なにを観る?


そこで自分らしい応えを見つけるしかない、問題だろう。


ただ・・・もちろんのこと、宿命論や自然体を押すのを、
どちらかをバッサリ切り捨てれば話が済む問題じゃない。
双方のかなさりが見えてくるまで拡張してつぶさに観る。
そうすることのほうが、現実的だと私は思います。 ^-^