体の使い方の視野を深めるかどうかについて



身体機能を機能的に発揮できるような理合にあった身体操作とは。


具体的な話まではいたしませんが、
多くの身体操作の門前にたった者達の感想は、
あまりに一般的な身体操作をする際の視点とは異なっていて驚く。


基本は、解剖学的に合理的な動き方の概念をベースにしています。
だから詳細を図示しながら改善するような解説はできるのですが、
まずもって身体内部にあるしこりなどが骨格をゆがめているなら
その状態が思わしくなければ体では理想の体現はできません。


そして自身の体でその身体操作が体現できないかぎり、
自分の身体とは乖離した他人事の知恵にも至らないアイデアにすぎず、
体の内部には重要度の高い情報として知識として頭に残るものでもない。
自分事のことを言われているにもかかわらず、
一向にそのことを他人事のことのようにしか
耳に届かないという状態に一般的にはなってしまうようです。




そこがもどかしいところですね。




たとえば施術などを受けてみる過程で体の動けるキャパシティは向上しても、
理想の動きを追求することもせずに、
無意識的にいれば勝手に体がしこりを求めてしまう。


なぜそんなことをしてしまうのか?


不思議に思えるかもしれませんが、
つまりしこり化の多くは、
その人にとって体を傾斜させたため崩壊過程を通ろうとする際に、
それを食い止めて安定させるための強力な利用価値の高い対処法だからです。
一部の筋肉をしこり化していたほうが体を支えられていて固定化できるぶん、
楽に全体的な肉体が支えられているという快感を得ているといえるでしょう。


もしそのしこりのみを、
凝りがあるのが悪の根源とばかり、
全体的な現状の支えの仕組みを理解せずにいい加減なリリースをするならば。
体の傾斜した部分は、たいていが骨盤部分からその傾斜は生じていって、
上半身がぐらついて、上半身の突端ともいえる頭部、特に脳が揺さぶられて
正常な思考をする妨げになってしまう。
そしてそれだけではなく、
数カ所の体の部分的なしこりを故意に創りだすことで、
体の多くを支える工夫が無意識のうちにされていたが、
そのようなしこりが取り外されれば体は傾斜し歪みが増していく。
そうなるとさらに複雑かつそこかしこに新たなしこりを創りだす。


そのような現象がおきるものなのです。



だから、施術の難しい点は、しこりを抜くことじゃない。
どのしこりをどの程度の量、どの手順で抜いていいものかを考えぬいて、
そのシナリオに基づいて解きながらまた思考を深めて軌道修正を絶えずすることができるか?


そのような基本的な能力の土台が育っていなければ、
それは一般の方々がセルフメンテナンスをする程度と何ら変わりがないといえるでしょう。
そのときは大きく体のしこりを取られすぎれば反動で、かなりの痛い目にあってしまう。
最近では筋膜リリースをとなえるところであっても、
深層筋までリリースをしようという場合には、
相当に選択を慎重にしたほうがいいのだろう。
個人的にそう思います。。。





ですが実際問題として、私のつたない経験からですが、
相当な施術上の臨床的な観察力や知識や能力がなければ、
安全かつスムースなリリースは期待できるものではない。


多かれ少なかれ、
どこかが反動で痛くなったり、
一進一退の攻防を繰り広げつつ、
少しずつ前進を続けるものです。
技術がある施術家がなすほどの成果が上がらないのは、
理屈で考えれば当然のことのような気がいたします。



ただそのようなしこりを取っていくことについて。
身体操作法を専門的に学ぶ人において、
深い理解と実践を繰り返しながらもしこり等が体内にあって
うまく理想の動きがかなえられない人の場合は違ってきます。


まったくもって体の改善スピードが、
一般のかたとは異なるという人もいます。



それは体が傾斜している状態かどうかを、
自己を詳細に観察しえスキャニングできている人です。
そしてどちらに自身の体のゴールがあるのかを知って、
すでに行き先の切符を買い旅立っている人のことです。
身体操作の要諦をすでにわかってしまっているのだが、
体の内側にはびこるしこりがそれを可能とできないようにするブレーキになっていた。
するとブレーキを踏みっぱなしで理想の身体操作をしようとアクセルを踏んでみても
にっちもさっちもいかない。


そんな状況に陥っているもどかしさを感じていたのです。


それがブレーキを踏みっぱなしでいた足をあげてもらい、
適切にアクセルのみを踏んでもらえれば体は走り出します。




そのような状況の方々も施術を受けに来ていただけることもあるのです。


すると仮に体の現状の状態が相当に悪化しているものであったとしても、
私がかつて経験した施術では、私が目を丸くするようなスピーディーな
画期的な改善を示してくれた方々がおられます。
それは多数ではないものの、まさに驚くような、
施術を受けるたびに頭のサイズが違ってきたり、
顔がシンメトリカルに磨きがかかってきたり、
身長が5センチ伸びたという40代男性もいる。
他にもちょっと信じられない変化が目白押しの人も実際にいたものです。




そしてそのような方々が得ている身体操作の知識や知恵は、
一般的なフィットネスクラブで指導を受けている内容とは
種類が異なることも多くあるようです。
だから、そのような変化のウエーブに乗れたのでしょうね。



そこは、具体的な例示をすれば容易に理解できるはず。
一般の方が考える身体操作と達者な方が感じて実践なさっている身体操作とでは、
それはあまりにも大きな目の付け所の違いがあるからです。
動きの理論自体が、大幅な違いがあるんです。


今日、施術を受けていただいた男性のお客様も、
バレエのレッスンでおこなわれる「プリエ」をするとき
脚部の動きをどう認識して身体を動かすのかがわかると
今までの自分の見立てとは違っているところがあったと気づいたという。


そのような気付きって大事なんですよね。
そしてなおかつ、
自分の身体操作の再点検をつぶさになさって、
そこにメスを入れる気分になれるかどうかです。



人は、自身の身体操作の方法について、
10代前半には動き方の基礎パターンを得ており、
その基本が負担が強いられていたものであっても
そのやり方を保守的に守り続けようとするのです。


それは一旦でも、
手を上にあげる動作ができるようなやり方を知れば、
それを無意識に繰り返すというようなものでしょう。


手をあげるやり方のバリエーションはたくさんある。
だが身体操作をいろいろ試すというのは、
今までしたことがないようなパターンを
なさねばならないということです。
するとやりづらいやり方もあるし、
せっかくすでに手をあげるやり方を知ってるならば、
それを繰り返しておいたほうが脳を創造的に使って血液を大量に使うというコストをかけるようなことはしたくなくなる。


ひとは、自身が動きのパターン化がなされて、
そこの轍にはまりきっていると気づくような洞察力を持って自己を観察できていること。
そしてその観察だけではあまり変化は持続できないもので、
そこから抜け出す決意をしてさらに優れた動きを生み出す努力・創作へと手をださないかぎり、
またその人自身がなさっていた姿勢に逆戻りを、自らしようとし始めるのが常なのです。




それが、すでに自己の身体状況的洞察をあらゆる感覚器官を活かしてなす注意力を持ち、
体の使い方の保守性を黙らせて自由でクリエイティブな身体の扱いを試行錯誤しだすと
人の体は、どんどんと加速度的に書き変わっていくものなのです。



無自覚的にパターン化した身体操作を繰り返す人生を送るのか、
それとも、
創造的で改良につぐ改良を旨とした身体操縦法を成熟させるか。



そこには健康的に生活を送り続ける保証にもかかわるような
大きな隔たりがあるように、私は感じます。



また創造的に身体操縦法を作り出して生まれ変わるにも、
そこにどのような導き手を得ることができるかどうかで、
まったく違ったその後の結果が生じてくるでしょう。


特に身体操作を真剣に学びたい人の場合。
師匠選びには、妥協をすべきではないです。
それはボディワイズにお通いになられる一部のお客様の姿勢を観て、
自分の足でどれほどがんばっておられるかどうかで、
単純に開きが出るものなのだと思えてなりません。
もろに将来の大きな身体操縦法の会得の開きがでてくることになります。



簡単に自身が求める師が得られるという考えは捨てたほうがいいと思います。
中国武術を収めようとするものは最低でも3年間は多くそして広く師を求めて動き続けるようにすべきだという言葉があります。


または安易にこの師についていこうとは思わないことです。
それは自分も真剣に身体操作を学びレベルが上がれば、
今習っている師匠も変える必要が出るかもしれません。



自分に最適な先生を選ぶことを厭わず手間暇時間にお金もかけること。
そこはほんとうに重要だと思えてなりません。